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科学者の目で 中国共産党を批判/豪放 方励之さんとの日々(濱本 良一)2023年3月

 昨年秋に台北の書店に立ち寄った際、『方励之自伝』(2013年)が目に留まった。表紙に右腕を挙げて朗々と演説する往年の写真があしらわれ、30年以上前の思い出がよみがえった。「方励之」と聞いてピンと来る日本人は少なくなったかもしれないが、改革・開放の初期に中国共産党を大胆に批判した中国を代表する反体制派の知識人だった。

 

民主化運動の先駆け的存在

 私は新聞社の特派員として上海、北京、香港などに駐在し、さまざまな中国人・華人を取材したが、今も忘れ難い一人である。

 方氏は当時、既に天体物理学の世界では国際的に知られた存在だった。名門・中国科学技術大学(安徽省合肥)の副学長という要職にありながら、区人民代表の学生枠を自由選挙で選んだ学生たちを「民主は自ら勝ち取るもの」と称賛し、一部学生のデモを容認した。

 この方発言もあって学生自身による代表選出要求デモは全国に広がり、民主化運動の先駆けになった。

 天体物理学を通じて海外の碩学と交流があった方氏は中国も「全面的な西洋化(全方位開放)」すべきとする大胆な主張を展開していた。

 上海特派員だった私は、1988年の夏、南京在住の台湾出身の女性天文学者で、全人代代表(国会議員に相当)も務めていた劉彩品さんから「面白い学者がいるから会いに来ないか」と誘われたのがきっかけだったように記憶している。

 方氏は若かった私に滔々と持論をぶつけて来た。前年87年1月に最高指導者・鄧小平の指示で党を除名され、副学長の地位も失っていた。

 その頃の記事を見ると、私の質問に方氏はこう答えている。

 「1950年代には共産党は非常にすばらしい組織だと思った。党が追求する目標は私と同じ社会主義だった。努力奮闘すれば共産主義にさえ到達できると信じた。理想があった。しかし、30年余を経て、理想は破れた。にせ物だと分かった。私たちは一生懸命やったが、指導者はふりをしていただけだ。党は変質した。党の指導は宗教のようになった。私は党には戻らない」

 豪放磊落な語りぶり。みなが恐れて口にしないような言葉がどんどん飛び出した。

 

「社会主義 成功とは言い難い」

 「あなたは社会主義を否定するのか?」と突っ込むと「私はスターリン主義的社会主義を明確に否定する。ソ連をはじめ多数の国がやって失敗してきた。中国は40年近くやったが、成功とは言い難い。私は〈人が人を搾取せず、貧富の差のない社会を〉といった社会主義の精神まで否定はしていない。日、米や欧州の資本主義には欠点が多いが、各国とも豊かな経済力、高い教育水準、民主政治――の3点を備えた先進諸国だ。いま、台湾と韓国がその仲間入りをしようとしている。台湾、韓国は三番目の、民主政治の段階に入りつつある。私たちの目前には、こうした成功への道が示されているのだ。なのに、どうして中国はまだ模索を続けねばならないのか」としごく明快だった。方氏の分析はいまの視点で見ても正鵠を射ている。

 忘れ難いのは「中国の社会主義には柔軟な側面もあり、希望があるのでは」と水を向けたら「そうではない」と即座に否定し、「社会主義体制下の商品経済と言うが、商品経済の究極は私有制であり、仮に今後成功したら、それはもう資本主義だ。経済改革での請負制度や個人経営などは(1949年の)開放前から存在していた」と指摘したことだ。

 方氏は「国民党時代にやっていたことに過ぎない」とも表現した。共産党の指導者にすれば、国民党並みだと侮辱されたも同然だった。

 その翌年に天安門事件が起きるとは、全く予想できなかった。 

 中国批判が当たり前のようになっている昨今では考えにくいが、まだ中国が貧しかった時代だった。日本の報道は、戦争時代の贖罪意識も相まって中国の社会主義建設を好意的な視点で伝えるのが普通だっただけに、方励之発言は意外性を伴っていたと思う。

 私はその後も折につけ方氏の話を聞き、北京の拙宅に方氏と李淑嫻夫人のほか、日本大使館の外交官や専門調査員らを招いて会食したこともあった。しかし、中国当局からのいやがらせや妨害を受けた記憶はなかった。あったのはいつもの電話の盗聴程度だった。 

 学生デモは87年1月の政治局拡大会議で総書記を解任された胡耀邦の〝罪状〟のひとつにもなった。

 その後、方氏は89年の天安門事件で、学生・市民の反乱の黒幕の一人として逮捕される恐れが生じ、北京の米国大使館に夫妻で保護を求めた。さらに米中交渉の結果、「病気治療」を理由に90年6月25日、第三国である英国に脱出した。事実上の国外追放だった。

 鄧政権は米国の対中制裁の解除を求め、応じない米国との間で膠着状態となった。そこで日本が水面下で動き、対中円借款の凍結を解除したことが方氏の脱出につながった。

 一方、方氏は米アリゾナ州ツーソンのアリゾナ大学で物理学担当の教授として迎えられた。

 

三代で台湾と歴史的なえにし

 在米中に方氏は、親族にまつわる興味深いエピソードを披露している。母方の祖父・史久龍は清末に台湾に派遣されていた官吏で、日清戦争終結後に台湾は日本に割譲された。そこで清朝政府に見放され、残された住民は「台湾民主国」を宣言したのである。これはすぐさま日本軍につぶされたが、わずかな期間の証言録『憶台雑記』(二巻)を著したのが史久龍だったのである。

 成功していれば史上初の独立国となった「台湾民主国」が日本によってつぶされたのは、今となっては歴史の皮肉かもしれない。

 この本は今も台湾の歴史書や学術論文に引用される貴重な記録だ。加えて方氏の母・史佩済さんは1920年代の中国で街頭デモに参加していた社会活動家だったという。

 祖父、母そして方氏と三代にわたって中国・台湾の歴史に深く関わるえにしにあった。自身の家系について「激動に耐えられる力がある」とユーモアで綴っている。

 方氏は2012年4月6日に心臓麻痺で死亡、76年の人生を終えた。遺族は「医師に肺炎を感冒と誤診され、誤った2種類の薬の投与が原因で心臓麻痺を起こした」と訴えている。

 

在米20年余は研究生活

 在米中の方氏の動静が伝えられることは少なかった。そのわけは中国政府に提出した書面の中で、米国では研究に没頭し、中国の反政府活動に関与しないと約束したからだ。事実、方氏はそのように行動した。

 長男の方克氏(60)は『方励之自伝』の前書きで、父親の在米生活を次のよう記している。

 「アリゾナ大学で過ごした20年間で、父は宇宙の幾何的組織を研究し、マイクロウェーブ演算法で宇宙の暗黒物質の分布を研究した。だいたい毎年6~7本の文章を発表し、2010年に米国物理学会のフェローに選出された。この間に博士と博士研究員20人を養成した。数人は中国から渡米して父の学生となっていた。母の証言によれば、父は毎朝5時ごろに起床して(ネットのTV電話)スカイプを使って大陸中国の学生や同僚たちと通話し、指導や討論をしていた」

 方氏は科学者としての冷徹な目で真理を見抜き、果断に行動した稀有な中国人だった。

 

 はまもと・りょういち▼1952年名古屋市生まれ 76年読売新聞社入社 ジャカルタ 上海 北京 香港 中国総局(北京) カリフォルニア大学バークレー校ジャーナリズム大学院非常勤講師を経て 論説委員 12年退社 国際教養大学教授を8年間務める 現在はフリーランス記者 著書に『富強中国の源流と未来を考える』など

 

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