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2人のIOC会長と北京五輪/ロゲ氏の動画、バッハ氏「挑戦」(佐野 慎輔)2022年12月

 喧噪と人混みをぬいながら、その男を探した。彼なら印象的な〝ひとこと〟をくれるのではないか。

 広い会場の片隅で彼に聞いた。

 「なぜ、北京なのか」

 彼、トーマス・バッハ氏はほんとうに〝ひとこと〟で答えた。

 「Challenge」

 そして踵を返しながら、言葉を継いだ。「実験だよ。IOCの壮大な実験だと思ってもらっていい」

 

1993年・モンテカルロ

 2001年7月13日、国際オリンピック委員会(IOC)はモスクワで開いた総会で08年夏季オリンピック開催都市に北京を選んだ。

 そのこと自体に驚きはない。投票前から本命視されていたし、何よりもフアン・アントニオ・サマランチIOC会長に促される形で北京が立候補を表明していたのである。

 北京は2000年大会招致を目指した1993年モンテカルロ総会でシドニーに競り負けた。過半数の票を得るまで得票最下位の都市を落としながら続く投票で、3回目までは1位。しかし最終4回目の決選投票は43票対45票、わずか2票差で勝利を逃した。89年第二次天安門事件の影響が指摘され、「IOCは無難な道を選択した」と言われた。

 「中国における人権弾圧の問題も指摘されていたし、IOC委員の間には確実に『中国の実態がわからない』という不信感があった」

 IOC委員でもある岡野俊一郎さんは総会前からシドニー優位を〝予言〟し、IOC委員の間に蔓延する「空気」を理由にあげていた。

 中国はその敗北後、しばらくIOCと距離を置き、表立った動きは止めた。一方、圧倒的な実力者であったサマランチ会長への工作は続けており、岡野さんは「柿の実が熟して落ちてくるのを待っている」と評した。04年招致を見送り、08年に照準を絞ったのは、まさに熟す時に至ったというわけであろう。

 

2001年・モスクワ

 01年のIOCモスクワ総会では、ほかの立候補都市が出そろうのを待ち、最後にサマランチ会長の要請を受ける形で北京が名乗りをあげ、大勢は決まった。この時、大阪市が立候補していたが、岡野さんは「立候補を取り下げ、北京支持にまわるべきだ」と諫言した。しかし、大阪市は「我々は正々堂々と戦う」と〝猪突猛進〟、第1回投票でわずか6票という惨めな結果となった。

 本命北京の懸念材料は相変わらず人権弾圧で、大気汚染、水質汚染も問題視された。IOC副会長も務め、招致の先頭に立っていた中国の何振梁氏は「オリンピックを開催すれば、中国は変わる」と力説していた。

 バッハ氏は当時48歳、最年少の理事会メンバーながら副会長を務め、会長を意識し始めた時期にあたる。「Challenge」とは、北京を開催都市に選ぶことで中国が西側社会に窓を開き、課題を解決しようとするIOCの未来志向でもあった。

 北京が2008年開催都市に決まった01年のIOCモスクワ総会。勇退したサマランチ会長の後を襲い、IOC第8代会長に就任したのがジャック・ロゲ氏である。

 「僕は整形外科医だからね、切ることは得意だよ」

 IOCの屋台骨を揺さぶったソルトレークシティーの招致スキャンダルが尾を引く中での就任。「オリンピックの手術」を志した。

 ドーピング対策を強化し、クーベルタン精神にたち返れとユース・オリンピックを創設、国際パラリンピック委員会との協調も推進した。しかし、適正化を求め、規模の縮小を目指したオリンピックの改革には届かず、東京2020大会の贈収賄事件で露呈した行き過ぎた商業主義にメスをいれることもかなわなかった。抵抗勢力が大きかったと聞く。

 そして、中国の人権問題にIOCが関与し、課題解決の糸口をみつけることもまたかなわなかった。

 

2006年・東京

 そんなロゲ氏が中国に関わる複雑な思いを垣間見せたのは06年10月。筑波大学から名誉博士号を授与され、式典出席のために来日したときである。分刻みの日程の合間をぬって、懇談する機会を得た。

 筑波大学が創設したオリンピック講座の内容を毎週、産経新聞が記者を派遣して紙上採録。当時IOC副会長だった猪谷千春さんを通し、ロゲ会長から講座にメッセージをもらったことが名誉博士号のきっかけになった。その縁で来日時、ロゲ氏と猪谷さん、当時の産経新聞・住田良能社長と4人、宿泊先の帝国ホテルで食事しながら話に花を咲かせた。

 「この話を知っているか?」

 話の最中、タブレットを開いたロゲ氏が聞いてきた。

 雪の山中を行く一群があった。やがて発砲音がして幾人かが倒れた。この年、つまり06年9月30日に起きた中国の国境警備兵によるチベット難民銃撃事件とされる映像だった。中国側は今も事実関係を否定しているが、1人の修道女が殺されて多数が負傷した「ナンパラ銃撃事件」にほかならない。

 このとき、欧米ではすでに人口に膾炙していたが、日本ではまだ報じられていなかった。住田さんから「すぐ記事にせよ」と指示が飛んだことは言うまでもなかった。

 08年北京大会の開幕まで1年4カ月、IOCとしてはそっとしておきたい時期である。なぜ、中国の人権問題に取り組む産経新聞の我々にあの動画を見せたのだろうか。

 結局、この事件は大きな動きを見せないまま北京大会は開幕、そして閉会。ロゲ会長は何事もなかったかのように、北京大会を絶賛した。

 中国は01年当時とは比べようもないほど、国際社会への影響力を強めていた。あのとき、どんな思いで動画をみせてくれたのか。真意を聞けないまま、ロゲ氏は東京2020大会の最中の21年8月29日、79歳の人生の幕を引いた。北京での称賛はオリンピックとIOCを守る姿勢だったのかもしれない。

 

2022年・北京

 22年2月4日、北京冬季オリンピック開会式。NHKが映し出すバッハ会長と中国の習近平国家主席が並んだ姿を複雑な思いで眺めていた。

 欧米が激しく指弾、大会ボイコットが呼びかけられた新疆ウイグル自治区や香港における人権弾圧は解決したわけではない。開催を名目に、バッハ会長が批判を抑え込んだとする見方さえあった。

 ふたりの関係は13年までさかのぼる。東京が20年大会開催都市に決定した9月のIOCブエノスアイレス総会。退任するロゲ会長の後任にバッハ氏が決まった。2カ月後、新会長は初訪問先に中国を選んだ。翌年、南京で開催予定のユース大会の準備状況視察が名目だが、北京は2年後に決まる22年冬季大会招致に名乗りをあげていた。新会長が立候補都市を訪問する危うさが指摘されたのは当然だろう。

 しかしバッハ氏は動ぜず、前年12月に中国共産党中央委員会総書記に就任したばかりの習氏にオリンピックオーダー金章を授与している。国家副主席1年目の08年、総責任者として北京大会を成功させた功績との理由だった。それは、中国の影響力の伸張に目を見張るバッハ氏の阿り、政治利用だと批判された。

 両者はしかし、これを機に関係を深め、習氏が威信をかける22年大会を主導していくのである。

 さて、「Challenge」そして「壮大な実験」は成功だったのか、それとも失敗に終わったのか。まだ、バッハ氏に答えは聞いていない…。

 

 さの・しんすけ▼報知新聞社を経て 1990年産経新聞社入社 シドニー支局長 外信部次長 編集局次長兼運動部長などを経て サンケイスポーツ代表 産経新聞社取締役を歴任 スポーツ記者を30年間以上経験し 野球とオリンピックを各15年間担当 5回のオリンピック取材 現在 尚美学園大学教授 著書に『西武ライオンズ創世記』など

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