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禅を縁に授かった「宝物」/「吉兆」調理場 乾坤一擲の構え(小出 重幸)2022年6月

 「松花堂弁当」を考案、日本料理の世界で初めて文化功労者になった、「吉兆」創設者の湯木貞一さん(1901―1997)に、読売新聞・家庭とくらし欄、「生涯現役」のインタビューでお目にかかったのは、1990年春のことだった。

 京都・嵯峨野、「吉兆・京都店」の茶室。午後からのインタビューで2時間余、生い立ちや、茶道とのかかわり、料理にかける意気込みを聞き出し、一通りの取材を終えた後の雑談で、その昔、湯木さんに色々とお世話になったことのお礼をお伝えした。これがきっかけで、この日午後9時まで、湯木さんにお付き合いいただくことになったのだ。

 

「若い連中に私がお茶を」

 初めて湯木さんにお会いしたのは、1969年、高校卒業後に転がり込んでいた京都の禅寺、妙心寺塔頭の「大珠院」でのことだった。湯木さんは、住職の盛永宗興老師(1925―1995)に私淑しており、たびたび訪れた。本職の雲水と一緒に小僧をしていた私は、老師の脇で抹茶を点て、おもてなしする役割だった。

 中秋の夕刻、大珠院で観月会が催された。縁のある著名人が集まり、本堂前の鏡容池に昇った満月に向かって読経したあと、ささやかな点心と茶礼が開かれた。十人ほどの客が帰った後、湯木さんは一人で残り、「裏方を務めてくれた若い連中に、私がお茶を出しましょう」と言って、我々を集め、茶礼で出された茶碗を使って、順番にお茶を点ててくれた。茶器はすべて、日本を代表する銘器で、私が飲ませてもらったのは「高麗堅手井戸茶碗」、隣の雲水の茶碗は「初代楽長次郎作」……。「若い人に、〝本物〟に接してほしい」という、湯木さんの心配りであった。しかし当時の私には、湯木さんの説明も馬耳東風で、感謝よりも、長時間、畳に正座する痛さから早く解放されたい……そんなありさまだったのだ。

 「実は大珠院で、吉兆さんにお茶を点てていただく体験がありました。私も40歳近くになり、そのとき吉兆さんが、我々になにを伝えようとしていたのか、ようやくわかるようになり、感謝しています」

 こうお話しすると、湯木さんはぽんと膝をたたき、「そうでっか、あなたは宗興老師のところにおられた」、と嬉しそうに答えると、「それなら、時間ありますか? これから裏で夕食の準備を見て行きなさい」と、裏の調理場に案内してくれたのだ。

 

「あなたもおやりなさい」

 吉兆の台所――普通にはまず、入れないところだ。

 広い調理場には、ステンレスを張った調理台が並び、湯木さんは小さな椅子を出すと、片隅の一角に陣取った。そして「あなたもここに座りなさい」と、調理台の隣に二人で並ぶと、きれいな輝きを持つ「バカラ」の猪口が二つ、調理台に並べられた。一人の板前が冷えた純米吟醸酒を注ぐ。びっくりしていると、突き出しのお皿が出てきた。そして、「さあ、あなたもおやりなさい」。毎日、その日の献立を事前に吟味する、これが湯木さんの習慣だった。

 調理場の天井下の壁面には、ずらりと木の短冊が、上下に並べて吊り下げられている。調理場を一周するそれぞれに、食材や献立が細かく書いてある。よく見ると、首相経験者、作家、人間国宝の舞踊家など、著名人の名札があり、いずれも常連客だった。上段に好きな食べ物、下段に苦手な食材……鴨居の上を見れば、来客の好みが即座にわかる。細かい気配りは、こうした工夫が支えていたのだ。

 

「味にはこれっという一点が」

 「よしっ、この店でいちばんうまいお椀を食べさせてくれ」。冷酒の味が身体に回ったころ、湯木さんがこう言った。前にいた二人の板前の顔が、にわかに緊張する。銅の鍋を取り出すと、わしづかみにした削り節を鍋に盛り、お椀を作り始めた。

 懐石料理で、二番目に出てくる「お椀」は、コースの中で最も大切なものだという。「お酒が入って、お客の舌が最も鋭くなっている時に出されるのが、お椀です。良しあしは、その夜の感動を左右してしまう、だから、調理場は乾坤一擲の構えです」

 輪島塗の豪華な蒔絵、アブラメとヨモギ豆腐のお椀が二つ、ステンレスの台に置かれた。湯木さんはふたをあけて、ひとくち、ふたくち味わうと、「う~む」といって、いったんふたを閉じる。おもむろにまた開けると、もうひとくち味わって、こう言った。「カツオは、ようけ入れりゃあええもんとは、違うんやで」。調理台の向かいで、主人の口元を凝視していた二人の板前は、この一言で表情を和らげ、仕事に戻っていった。 〝合格〟の意味のようだった。

 板前が去った後、湯木さんはお椀に猪口の酒を少し注ぎ入れ、またふたをした。そして、「あなたもやってみなさい」。湯木さんを真似てみる。もう一度ふたを開けて味わったお椀の味は、確かにふくよかになっていた。「これを、酒塩と言いますな。美味しくなるんです。でもあなた、板前の見ている前でこれをやったら、あきまへんで」という気配りの注意も、教えられた。

 「味には、前でも、後ろでも、右でも、左でもない、これっ、という一点があります」。これが湯木さんの語り口だった。

 この精神は、味付けから器の盛り付け、給仕のタイミング、床の間、庭の手入れから、トイレの気配りまで及び、吉兆の料理を世界に広めた。松平不昧公の著作『茶会記』を引き合いに、「根底に茶道の精神、禅の教えがあったから、懐石料理は優れた文化になったのです」。

 大阪・高麗橋で最初の店を出したころ、馴染みの客の一人に、帰りがけにこう言われた。〈吉兆さん、今日のお椀にはがっかりしました……〉

 「こういうお客たちに鍛えられて来たわけで、ありがたいことですな」

 お椀は乾坤一擲、その意味がよくわかる述懐だった。

 

「そや、老師に会いたいなあ」

 調理場で美味しくいただいていると、湯木さんは急に「そや、老師にしばらく会うてへん。会いたいなあ」と言い出した。私も世話になっていた、盛永宗興老師のことだ。現在、京都吉兆の主人となっている、孫の徳岡邦夫さんに電話するよう指示し、当時、花園大学学長室にいた宗興老師に、妙心寺で精進料理を受け持っている料亭「阿じろ」で合流する手はずを整えた。

 「あなたも老師にはお世話になったご縁があるでしょう、一緒に来なさい」と言われ、湯木さん、徳岡さんと、嵯峨野の吉兆から車で出発した。夕刻、桜吹雪の広沢池のほとりを通り過ぎ、車は妙心寺へ。「阿じろ」の座敷で、宗興老師、湯木さん、徳岡さんと4人の一献は、忘れがたい一夜となった。

 盛永宗興老師は、昭和後期を代表する禅僧のひとりだ。大徳僧堂で修行後、専門道場の師家にならず、大珠院を拠点に、主に在家の人たちを指導、仏教の教えを極めてわかりやすい言葉で伝えた。学生から社会人まで、多くの若者を寺に預かり、雲水と一緒に修行させて、こころの足腰を鍛えた。『子育てのこころ』『お前は誰か・若き人びとへ』などの著作のほか、福井謙一、岡田節人、中村桂子さんら、科学者との交流を重ねた成果を、『禅と生命科学』という一冊にもまとめている。湯木さんも、一世代年下の宗興老師を自身の師家とし、吉兆で修行する若い板前の何人かを、大珠院に雲水見習いとして送り込んでいた。

 「京都吉兆」の徳岡邦夫さん、「阿じろ」の主人、妹尾吉規さん、うどんすき「美々卯」主人の薩摩和男さん、「桜田」主人、桜田五十鈴さん、いずれも、一緒に座禅を組んだお仲間だ。実は、吉兆の調理場で出会った二人の板前、現在「未在」主人の石原仁司さん、吉兆を長く支えた村上寛治さんも、大珠院の〝道友〟であった。

 湯木さんから教えられた多くのこと、記事には書ききれなかったが、これもまた、禅という縁に授けられた「宝物」だったといえる。

 

 こいで・しげゆき▼1951年東京都生まれ 76年読売新聞社入社 東北総局 社会部 生活情報部 科学部を経て 科学部長 編集委員 地球環境 医学 原子力などを担当 インペリアル・カレッジ・ロンドン客員研究員 政策研究大学院大学客員研究員 日本科学技術ジャーナリスト会議会長(2013-2017)などを経て 同会議理事 著書に『夢は必ずかなう 物語 素顔のビル・ゲイツ』『ドキュメント・もんじゅ事故』(共著)『みんなで考えるトリチウム水問題―風評と誤解への解決策』(共著)など

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