取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
沖縄報道「黙殺の時代」/ボツになった衝突の至急報(軽部 謙介)2022年5月
迷った。人様に誇れる大スクープとは無縁だったし、自慢できる業績も見当たらない。原稿依頼に躊躇するのは当然だろう。しかし、思い直した。「書いたのにボツになった話」なら紹介できるかなと。曖昧模糊とした記憶には脚色もあろうし勘違いが含まれるかもしれない。それでも、本土と沖縄のズレを示す小さな昔話をご笑覧いただければ幸い。
「それなら、いらないよ」
1980年代半ば、那覇支局員だった私は焦っていた。書いても、書いても、反響がないし掲載率も低い。
こんなことがあった。沖縄本島北部、国頭村で垂直離着陸機ハリアーの米訓練場が一方的に建設されようとしていた。怒った住民が現場になだれ込み、米兵と衝突。素手や警棒での殴り合いに発展した。
「MP(憲兵隊)や工兵隊とはいえ外国の正規軍と沖縄の住民が真正面からぶつかったのだからすごいニュースだ」
那覇支局の原稿は東京の本社が処理する。日米安保体制を揺るがす事態に発展するかもしれないと思ったので、至急報を送ろうとした。
「大変です。沖縄北部で住民と米兵が衝突しました。殴り合いです」
「殴り合いだと。けが人は?」
「いやあ、打撲程度ならあるかもしれませんが、いまのところ」
「それなら、いらないよ」
デスクとの間でこんな趣旨の会話が交わされた。一方的に電話を切られたのをはっきりと覚えている。
「えっ」と力が抜けた。殴り合いだけでは、「安保体制を揺るがす」どころか、全国ニュースとして配信するだけの基準も満たしていないと判断されたのだろう。
沖縄は「47分の1」扱い
当時は復帰から十数年が経過。基地問題や米兵関連の事件事故は相変わらずの状況だったが、沖縄はすでに「47分の1」の扱いになっていた。米軍との摩擦も「沖縄ではそれが日常=よほどのことがない限りニュースではない」というヘンテコな常識が根付いていたように思う。
今回改めて全国紙(東京本社版)の扱いを調べたら、朝日の2社面4段が目立つ程度。毎日は21行のベタ、読売は記事が見当たらなかった。当時のデスク判断は自然だった。
こんなこともあった。
ある月曜日の朝、いつものように支局に出勤するとテレビが突然こんなニュースを報じ始めた。
「韓国国防省の発表によると、北朝鮮の金日成主席が銃撃戦で死亡し、クーデターが発生している模様」
分断国家として緊張を強いられている韓国が言っているのだから信ぴょう性は高い。しかも38度線に立つ北側の拡声器からも同じような内容の放送が聞こえてくるという。これは一大事。各地の米軍基地でも出動準備に入っているのだろう。
すぐに在沖縄米軍の主力である海兵隊の広報部に電話をかけた。
「部隊に待機命令がでているのか」
「いいや。普段通りだよ」
空軍の答えも同じだった。「おかしいなあ」と思っていると嘉手納町役場の基地担当課長から電話がきた。何回か取材でお世話になったことがある。開口一番彼はこう言った。
「テレビで金主席がうんぬんとか言っているけど、違うんじゃないか」
嘉手納基地には当時、超高速で飛ぶ偵察機が配備されていた。朝鮮半島で何かあればこの偵察機が出動し、続いて空中給油機、護衛の戦闘機などが次々に飛び立つはず。しかも有事の際はそれが何回も繰り返される。
周辺には大きな迷惑だ。フェンスを隔てて民家がぎっしりと立ち並ぶ沖縄。離着陸時の轟音は耳をふさぎたくなるし、エンジン調整、つまり「空ぶかし」をする大型機のうなりは民家の窓ガラスを震わせた。
基地のすぐ隣に建つ嘉手納町役場の屋上には測定器が設置されていて、聞こえてくる爆音を拾っていた。あまりにひどい場合、米軍に抗議するための証拠集めだ。
役場の課長が正しい北朝鮮分析
課長はこう説明してくれた。
「先週の後半、爆音測定器の記録は大きく跳ね上がっている。偵察部隊が何度も飛びあがったんだろうね。でも昨日あたりからはきわめて静かだ。もし北朝鮮でクーデターが継続中なら、こんなものじゃないのでは」
なるほど。説得力がある。細かなデータを聞き東京に連絡した。
「北朝鮮では何も起こっていないか、事態はすでに収拾された可能性があります」
「何? だれがそんなことを言っているんだ。えっ、町役場の課長…。お前な、韓国の国防省が発表しているんだぞ」
大騒ぎになっている編集局の一画で、デスクも原稿処理に忙しい。ピリピリとした雰囲気は電話越しに伝わってきた。そんなとき支局の若い記者が珍妙な原稿を送りたいと言っている。怒られた。ボツになった。
しかし、課長の見立ては正しかった。金日成は生きていたのだ。米情報機関の誤訳とか、韓国軍の聞き間違いなど諸説あったのを覚えているが、事態の真相はいまだに不明。ただ、那覇支局発で「別の見方」を世界に提示できたかもしれないと思うと無念さは残った。
国頭村の事件も、嘉手納の一件も、デスクを批判するのは筋が違うだろう。なぜ普通の市民が米軍の建設現場になだれ込んで兵士と殴り合わねばならないのか。なぜ周囲を威圧する猛烈な爆音を役場の屋上で測定し続けねばならないのか。なぜ町役場の課長が世界的な大ニュースの裏側を見抜けたのか。それらをうまく説明できなかった、あるいは工夫した形で原稿にできなかった私に責任があるのだと思う。
専修大学の山田健太教授は、著書『沖縄報道』(ちくま新書)の中で地元紙と比較しながら全国紙の報道傾向について時代区分を試みている。
米軍施政下の「無理解」の時代、2000年代半ばまでの「軽視もしくは黙殺」の時代、2000年代半ばから翁長雄志知事誕生までの「政治」の時代、そしてそれ以降の「対立」の時代―。
1995年の少女暴行事件をきっかけにした普天間基地返還決定により沖縄への注目度には変化があったし、全国紙は各社とも支局体制の拡充に踏み切った。個人的にはこの事件も一つの境目になるのかとは思うが、80年代半ばが「軽視もしくは黙殺」の時代にあたると分類されたことは肌感覚に合致する。
「誠実一路」でファクトを探究
「対立」の時代とされた現在、SNSの発達により沖縄を巡る言説は虚実とりまぜて拡散されている。中には「ヘイト」まがいのものも。占領開始直後に米タイム誌が「忘れられた島」と書いた時代や、私が那覇支局で焦っていた頃に比べ、位相は全く異なる。復帰50年を迎える中、ジャーナリズムは沖縄をどう伝えていくべきなのか。
琉球政府主席で復帰後の初代県知事をつとめた屋良朝苗氏の日記は相当の崩し字で判読が難しい。秘書だった方の助力で一部を解読したことがあるが、本土復帰が決まる直前の69年10月29日はこんな風に書かれていた。
「内憂外患枚挙にいとまなし。(中略)只に誠実一路、馬鹿になり切って辛抱強く我慢していこう」
これだな、と思う。屋良氏の言うように、誠実に、愚直に、ファクトを探求し続けること。それが偏見や差別に満ちた沖縄関連のフェイクニュースに打ち勝っていく方法だと愚考するのだが、いかがだろうか。
かるべ・けんすけ▼1955年東京都生まれ 79年4月時事通信社入社 福岡支社 那覇支局などを経て 87年経済部 ワシントン特派員 経済部次長 ワシントン支局長 ニューヨーク総局長 編集局次長 解説委員長などを経て 2020年4月から帝京大学経済学部教授 著書に『ドキュメント 沖縄経済処分』(岩波書店) 『検証 バブル失政』(同) 『ドキュメント アメリカの金権政治』(岩波新書) 『官僚たちのアベノミクス』(同)など