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仮名でしか伝えられなかったがん患者/日記の激情に突き動かされ(佐藤 奇平(神奈川新聞社))2022年3月

 死因で長く1位の「がん」を取り巻く現状を追った2006年の年間連載「がんに負けない」を同僚と3人で担当した。プロローグでは、根底にある「生」と「死」を巡る患者の実像を描いた。最初に取り上げた山崎恵子さん=仮名=は、最も印象深い取材相手だ。

 取材の13年前、33歳で卵巣がんを発症、「余命3カ月」と診断されたものの、苦しい治療と再発を乗り越え、看護師として職場復帰を控えていた。「職場に知られたくない」と匿名を条件に取材に応じてくれた。「自分も患者の体験記に励まされた」「一人でも多くの看護師に患者の視点を伝えたい」との思いを強く持っていたからだが、インタビューでは予想外に口が重かった。うまく言葉を引き出せない自身の拙さがもどかしかった。

 

■13年分の思い3度読み通し

 

「子どものころから、自分の感情が出せない」と、理由を含めて申し訳なさそうに打ち明けたのは、3時間近くに及んだ2度目の取材の最後だった。職場復帰目前とはいえ、がんが治ったわけではない。長時間の取材は心身に相当な負担を掛ける。でも彼女の本心には触れられてもいない。悩んだ末、「日記を読ませてもらえないか」と厚かましくお願いした。数日後、「宅配便より早いから」と大きなキャリーケースを引いて13年分の日記を届けてくれた。

 厚手のノートには、きちょうめんな字でびっしりと、治療経過や生活ぶり、そして本音がつづられていた。友人の見舞いに「『強いんだね』って言われるけど強くなんかない」。苦しい抗がん剤治療には「叫びたい。まだ頑張らなくちゃいけないのって」。そして「まだ死にたくないんだよ、このままでは、死ぬわけにはいかないんだ」―。不安、怒り、死の恐怖…。努めて冷静に語ろうとしたその奥に秘めていた激情に圧倒され、何度も溺れ、身動きできなくなった。

山崎さんはなぜ、ここまでさらけ出してくれたのか。そこに思いをいたせば、立ち止まっているわけにはいかない。日記を3度読み通し、取材を重ねた。2回の予定だった連載回数は9回になった。

 最終回は、生きる喜びをかみしめ「自分らしく生きる」と初日の出に願掛けする場面で締めくくった。病と共存し希望を持って前を向く姿に、読者からたくさんの共感の声が寄せられた。当事者の肉声が持つ重みと説得力を痛感した。

 

■「等身大で描いてくれて」

 

 「忘れていたつらい感覚がよみがえってしんどいところもあったけれど」。山崎さんから届いた連載の感想は、こう続く。「等身大で描いてくれてありがとう」。最高の褒め言葉に、安堵した。

 年間連載ではその後、がん専門医ら多くの医療従事者に話を聞いた。専門性に引きずられがちな取材で「患者本位の医療とは何か」という軸を持ち続け、時に反論できたのは、間違いなく山崎さんの苦楽を追体験したからだ。

 山崎さんとの交流はその後も続いた。念願の長野県に移住、スローライフを楽しんでいることなど、年賀状での近況報告が楽しみだった。だが13、14年は届かなかった。しばらくして親族から「13年3月に亡くなった」との連絡を受けた。享年54。

いつか長野を訪れ、元気な山崎さんの姿をまた読者に伝えたい。その願いはかなわなかった。だが、彼女が教えてくれた当事者の本音に迫る取材と記事に宿る力の大きさを、後進に伝え続けたい。

(さとう・きへい▼1997年入社 現在 統合編集局次長)

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