ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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革命前夜 ホメイニ師のリンゴ/落選の仏大統領 不人気を問う(吉田 壽孝)2022年2月

 フランスが取り持った二つのセピア色の思い出がある。

 ブリュッセル、パリ、ワシントン、ロンドンの各都市で駐在記者として仕事をした。どの街がよかったかと尋ねられるが、どこも心底気に入っていて、離任後も仕事だけでなく個人旅行で何度も訪れている。

 フランスは邦人記者が取材する上で、難易度が高い国だといまも思う。フランス語という言語の壁をある程度乗り越えても、英米アングロサクソン型のジャーナリズムに馴染んでいる私たちにとって、「何だ、それ?」と思うようなことが結構多い。一例をあげるなら、仏ルモンド紙。事実の報道と論説や解説記事がごちゃ交ぜになっていて、英字のヘラルドトリビューン(当時)などと併読しないと全体像が見えない。取材でも「メディアの知る権利」などより相手との親密度がモノを言ったりする。その落差が他国に比べて大きいように思えた。

 パリ特派員として赴任したのは1976年3月。その2年前の74年春から隣国ベルギーのブリュッセルで仕事をしていたから、同じ仏語圏で横滑りした形である。

 世界は73年秋の第一次オイルショックの後遺症に苦しんでいた。第四次中東戦争が引き金になって産油国が石油戦略を発動、物価高騰と景気停滞が同時進行した。ジスカールデスタン仏大統領は先進主要国の結束を図るため、75年11月、最初の先進国首脳会議となるランブイエ・サミットを主導する。

 

パリ近郊に反体制最高指導者

 当時は欧州経済の停滞や内政危機の取材にエネルギーを割いたが、一方で、ジスカールデスタン大統領とシュミット西独首相との連携、ボン―パリ枢軸が動かす欧州政治・外交の展開は息をのむほどの興奮を覚えた。パリの美酒美食や地方の豊かな田園風景に癒されたせいもあって、この3年間は発見と感動、きらめきに満ちた時間だった。そして任期を終えて帰国準備が始まった79年1月から2月にかけて、もう一つ、大きな取材のヤマ場がめぐってきた。イラン革命である。

 イラン国王モハンマド・レザー・パフラヴィー(当時の日本のメディアはパーレビ国王と表記していた)に対する反政府デモが激化、そんな中で国外追放されていたイスラム反体制最高指導者のホメイニ師がパリに亡命してきた。市内から車で30分ほどの近郊の村、ノーフル・ル・シャトーの一軒家だった。ホメイニ師が何者かを知る人はまだ少なかったが、仏レクスプレス誌がネズミと化したイラン国王のしっぽをつかんで振り回すイスラム僧を表紙に掲げるなど、イスラム革命の勝利が間近に迫っていたのだ。

 

柵越しにイスラム憲法を問う

 ホメイニ師の滞在する一軒家は芝生の庭を白い木の柵が囲んでおり、側近のサーデク・ゴトブザデ氏が付き添って、フランス語の通訳を務めていた。ゴトブザデ氏はいかつい体つき、人懐っこい表情が印象的だった。取材ルールは一人一回、一問だけというので、私は柵越しに「イスラム憲法を公布するそうだが、どんな内容なのか?」と質した。すると、「高邁なイスラム精神」とか「万民の幸福につながる未来」などさっぱり要領を得ない答えが返ってきた。

 後日、得心したのだが、ホメイニ師の存立基盤は「カリスマ性」にあり、カリスマはわかりやすい必要はないのだ。むしろ訳のわからぬ言辞で群盲象を撫でる状況が生まれる方がよい。これは結局記事にならなかった。

 次の訪問ではホメイニ師は庭にテントを張っていて、他の人もいなかったためか、中に招じ入れてくれた。床に座り込んだ師の前に置かれた風呂敷包みが目に入った。今回も一問だけの制約下、「その包みの中はなんですか?」と尋ねてみた。すると「リンゴが入っている」と述べ、パリからの革命飛行でテヘランに凱旋する際もこの風呂敷包みだけで戻っていくと答えた。

 イラン・イスラムの最高指導者には悪いが、眼前の老人はどこにでもいそうな年寄りに見えた。ただ目線があちこち細かく動くのが印象に残ったくらいだ。そのホメイニ師がそれからわずか数週間後の2月1日にテヘランに凱旋帰国し、イランが今日に及ぶイスラム革命の舞台になっていく。その後に起こった第二次オイルショック、イラン・イラク戦争、米国大使館人質事件。そして中東世界はシーア派とスンニ派の分断と対立が激化していった。

 

88年大統領選出馬に意欲

 時日はめぐり、84年春、今度はワシントン駐在になった。レーガン政権の「強いアメリカ」の下、ホワイトハウス記者会は各国最強のジャーナリストたちが覇を競い、戦場のような緊迫感があった。

 そんなある日、フォード元米大統領が自分の所有するコロラド州ビーバー・クリークの別荘や周辺施設で国際セミナーを開催し、そこにジスカールデスタン氏を招くというニュースが目に入った。同氏のパリ事務所にインタビューを申し入れると意外や受諾のファクスが届いた。85年7月、拍子抜けするほど簡単にコロラド高地での会見が実現した。

 1時間半近くに及んだ会見内容は7月30日付日経新聞朝刊の国際面トップに掲載された。この時期、ジスカールデスタン氏は81年の大統領選でミッテラン氏に敗北した後も、なお再挑戦の意欲を示していたため、「88年大統領選出馬に意欲」が見出しとなった。

 しかし、ここでも「書かなかった話」がある。

 

ついたての陰から全裸の女性

 第一に私が約束の時間の午後2時半にコテージを訪れた際、ドアをノックしても応答がなかった。仕方なしにドアノブをまわしたら、施錠はなく玄関口に入れた。ところがそこになんとサロンの奥のガラスのついたての陰から全裸の女性が現れたのだ。女性は訪問客に気が付いて、すぐに仕切りの向こうに消えたが、この人がアルザスの財閥アンパン・シュネドルの令嬢でジスカール氏の妻となったアンヌ・エモンヌさんだった。家の裏側に大きなプールがあり、裸で日光浴をしていたのだと思う。あっ気に取られていたら前大統領が2階から半ズボン、ポロシャツ姿で降りてきた。

 次に、この会見で私が一番聞いてみたかったのは、ジスカールデスタン氏がフランス人にいまひとつ人気がなかったことを自身がどう見ていたかという点だった。ジスカール政治はドゴール時代の「フランスの栄光」などを希求せず、「フランスは中級国家だ」と割り切り、その現実に即した外交・経済政策を模索した。外国人の私にはわかりやすかったが、そのアングロサクソン的「わかりやすさ」がフランス国民の不人気につながっていたのでは?

 この質問にジスカール氏は不快感を示すこともなく、自分の政治思想の指南役はアレクシス・トクビルとその著書『アメリカの民主主義』なのだと明かした。自国の政治風土と米国型民主主義を比較しながら、政治の要諦を説いたフランスの知性を下敷きにしていたのだという。日本の新聞の忙しい通常ニュース面には、こんな暇ネタ部分は載らなかった。

 イラン革命から40年を祝う式典が2019年2月に執り行われ、〝聖地〟となったノーフル・ル・シャトーの一軒家は取り壊されて、記念碑が建立されたと、産経新聞のパリ支局長三井美奈さんは報じている。ホメイニ師も世を去り、息子のように愛したゴトブザデ氏は革命政府の外務大臣まで上り詰めたが、敵対勢力の密告で裁判にかけられ、処刑された。ジスカールデスタン氏は20年12月、94歳で亡くなった。外電は新型コロナに感染していたと伝えている。

 

 よしだ・としたか

 早稲田大学政治経済学部卒 1964年日本経済新聞社入社 経済部 ブリュッセル パリ各特派員 ワシントン支局長 東京本社編集局次長兼国際部長 欧州編集総局長 日経ヨーロッパ社長 日経ラジオ社社長 名古屋商科大学教授 国際協力機構のシニアボランティアとしてチュニジア政府外国投資振興庁で活動

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