ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


書いた話/書かなかった話 の記事一覧に戻る

ソ連崩壊30年に思う/クレムリンに翻る「赤旗」の幻影(斎藤 勉)2021年12月

 1991年12月25日、クリスマスの夜、クレムリンのソ連閣僚会議(政府)のドーム屋根のポールから槌と鎌の赤いソ連国旗が引き降ろされ、代わりに白青赤の新生ロシア国旗が掲げられた。作業員の見事な早業で、ソ連消滅から新生ロシアへの「唯一の移行セレモニー」はわずか35秒間の瞬間ドラマだった。

 私は赤の広場のレーニン廟わきでこの幻想的な光景を家族と応援の2人の記者と一緒に見上げていた。凍てつく広場で、歴史的瞬間を目撃した日本人は、ラッキーにもわれわれ「産経軍団」だけだった。

 

◆赤の広場の衝突の衝撃

 

 帰り際、87年4月に赴任して間もない夏の午後、これもたまたま赤の広場で出くわした少数民族と警官隊の衝突を思い出していた。支局から散歩がてら広場まで来ると、聖ワシリー寺院裏でイスラム教徒とおぼしき男女50人ほどが「クレムリンは独裁者スターリンによって中央アジアに強制追放させられたわが同胞の祖国帰還を認めよ」などと書いた赤い幟を手に、気勢を上げていた。クリミア半島を「父祖の地」とするタタール人たちだった。

 彼らはやがてデモ行進を始め、同寺院下の石畳まで来た時、監視していた民警約30人が突如、行く手を遮って激しい揉み合いが始まった。結局、デモは強制解散させられ、何人かが連行された。ゴルバチョフ政権のペレストロイカ(再建)は軌道に乗り始めたとはいえ、まだソ連共産党独裁体制下だ。この衝突は闇に葬られてしまう可能性がある。

 私は夢中でカメラのシャッターを切り、後日、「観光客から入手した写真」として東京に送った。産経は中国の文化大革命での「真実の報道」で66年以来、北京特派員は国外追放されたままだった。モスクワ支局も私1人だけだ。「私自身の撮影として衝突の写真を掲載すれば、ソ連当局に最悪の場合、追放の口実を与えかねない。そうなれば、産経は共産圏に特派員が1人もいなくなってしまう」。そう危惧しての苦肉の措置だった。写真は「観光客撮影」として第一面に掲載された。

 

◆メディアに競争が生まれた

 

 後日談だが、「激動続きで1人では無理。特派員がもう1人欲しい」と編集幹部に泣きついたが、「バカ、ウチが増やしたら、(日ソ記者交換で)東京にスパイ(ソ連の記者)が1人増えるだけだ」と一蹴され、2度と談判できなかった。

 クリミア・タタール人の抗議行動こそ、ソ連国内で燎原の火のように燃え広がり、共産主義体制の屋台骨を揺さぶっていく民族運動の狼煙だった。アゼルバイジャンに浮かぶアルメニア人居住地域・ナゴルノカラバフの本国への編入要求と紛争、第2次大戦直後にソ連に強制併合されたバルト3国の独立運動…。すべてがスターリンの国家犯罪だった。

 ゴルバチョフ政権のグラスノスチ(情報公開)は一言でいえば「非スターリン化」であり、大粛清の犠牲者の復権、禁断の芸術作品の復活が相次いだ。言論は百家争鳴の活況を呈し、党の宣伝機関だったソ連のメディアにも「競争」が生まれた。

 ゴルバチョフ氏は「新思考外交」を掲げて洋の東西狭しと飛び回った。米ソ軍縮交渉を重ね、チェコスロバキアの「プラハの春」弾圧を正当化した「制限主権論(ブレジネフ・ドクトリン)」を撤回、膨大な戦費が国家財政を破綻させたアフガニスタン侵攻にも終止符を打った。89年は東欧激動のピークとなり、ポーランドを皮切りに共産党政権がバタバタと倒れた。11月にはベルリンの壁が崩壊、12月にはゴルバチョフ氏とブッシュ米大統領が嵐の地中海・マルタ島で「冷戦終結」を宣言した。

 

◆書けなかった「国名変更」

 

 翌90年が明けて2月1日夜、モスクワで催された小パーティーでバルト3国出身の党関係者からそっと耳打ちされた。赴任してから3年来の「ウオッカ友だち」である。

 「2月5日開幕の拡大党中央委員会総会で歴史的な党基本大綱が採択されるはずだ。文書を持っている人を探せばいい」。私は押っ取り刀で支局に戻るや、片っ端から親しい取材源に電話を入れた。いた! 「明日オフィスに来い」という。一日千秋の思いで夜を明かし、2日の午後、その人の元へ素っ飛んで行き、明かされた情報は衝撃的だった。

 「ソ連は共産党の一党独裁を放棄し、複数政党制に移行する」

 ゴルバチョフ政権が源となった民主化の怒濤は東欧各国の独裁政権を次々となぎ倒し、ブーメランとなってクレムリンを直撃したのだった。

 翌3日の1面トップで扱ってくれた特ダネは「競争」が生まれたソ連新時代の賜物だったと思う。総会では侃々諤々の議論の末、「大綱」は原案通り採択された。1カ月後の3月14日、独裁の根拠だった憲法第6条の「党の指導的役割」が削除された。大統領制の導入も決まった。

 私の次の関心は「ソビエト社会主義共和国連邦」の国名の変更だった。共産党が独裁を放棄した以上、「社会主義」は早晩削除され、「ソ連」の国名は消滅するのが当然の流れだと思った。「6条」の削除後、私は「その時」に備えて「国名を変更へ」との荒い予定稿を書いて机の中に忍ばせた。しかし、どの取材先も「東欧維持の重荷を下ろしたゴルバチョフ氏はソ連邦だけは何としても堅持したい腹だ」「新国名? それはわからない」などと曖昧だった。

 

◆「第3のクーデター」やいかに

 

 91年に入ると全土で民族独立や民主化要求のデモ・集会が日増しに激しくなった。新国名の最終確認を取る余裕もないまま、ソ連初代大統領となったゴルバチョフ氏が「主権国家連邦条約」という名の新連邦条約を締結しようとした、まさにその前日の8月19日、同大統領をクリミアに監禁して全権奪取を企てた守旧派によるクーデターが起きた。中央集権を弱めて徴税権などを地方に譲る新条約が結ばれれば、自分たちの数々の特権も失われるとの危機感にかられた首謀者らの賭けだった。

 エリツィン氏(のちのロシア大統領)の旗振りと民衆の抵抗でクーデターは「三日天下」に終わり、最終日の夜、KGB(国家保安委員会)広場に立っていた秘密警察の創始者、ジェルジンスキー像が倒された。私は熱狂的現場に8時間も立ち続け、事実上のソ連崩壊を腹の底で痛感した。数日後、ソ連共産党は解体された。

 これを「第1クーデター」と呼ぶなら、12月8日、ベラルーシ・ベロベーシの森にエリツィン氏ら改革派のスラブ3首脳が集まって「独立国家共同体(CIS)」の創設を電撃決定したのが「第2クーデター」だった。同夜、ベラルーシ外務省は「ソ連邦は国際法の主体として、地政学的現実として、その存在を停止した」と明言した声明文を発表、ソ連はここに消滅した。文書をひったくってベラルーシの首都・ミンスクのホテルに戻った私は、東京の外信部と電話をつなぎっ放しにして「勧進帳」で送稿した。仕事後のウオッカは格別だった。

 ソ連崩壊から30年。クレムリンにはまた「赤旗」が翻っているのではないか、と錯覚させるほど、プーチン政権はソ連に本卦還りした。守旧派のクーデターの首謀者らが謀った通りの強権・恐怖体制がロシアに現出したともいえよう。最新機器による監視網下、反体制派の暗殺が相次いでいるという点ではスターリン体制の超近代化版を見ている気もする。プーチン氏一族の途方もない腐敗も暴露されている。憲法や法律を玩具のように弄んで「終身独裁者」への道をこじ開け、「生涯の刑事・行政免責特権」も手にした。はて、「第3クーデター」はいかに―。

 

 さいとう・つとむ

 1972年産経新聞社入社 テヘラン特派員 モスクワ支局長(2回) ワシントン支局長 外信部長 東京編集局長 取締役副社長・大阪代表 2018年から論説顧問 一連のソ連・東欧報道で89年度「ボーン・上田記念国際記者賞」 「ソ連、共産党独裁を放棄へ」で90年度「新聞協会賞」 著書に『スターリン秘録』『日露外交』など

前へ 2024年02月 次へ
28
29
30
31
1
2
3
4
10
11
12
17
18
22
23
24
25
29
1
2
ページのTOPへ