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昭和最後の日までの474日 /「聖上」のご病状を追った日々(内城 喜貴)2021年11月

 昭和64年、1989年が明けた1月7日未明。午前5時すぎだった。科学部のソファで仮眠していた私は社会部デスクに叩き起こされた。「侍医長がパトカーに先導されて自宅を出た。総員呼び出しだ」。昭和最後の、平成最初の、怒濤の一日の始まりだった。

 

◆忘れられない長い一日

  共同通信の編集局は間もなく騒然となった。絶え間なく流れる参考・編集情報。皇太子ご一家のほか、皇族の方々が吹上御所に入った。竹下登首相も自宅を出た。社内の誰もが「その時」が近いことを悟った。

 用意していた膨大な予定稿を取り出しチェックを始めていた頃だ。午前7時46分だった。「天皇陛下、午前6時33分崩御」。公表に先駆けて整理本部が全国の新聞、放送各社に「フラッシュ」を打った。その約10分後に藤森昭一宮内庁長官が、さらにその約1時間後、高木顕侍医長が記者会見し、昭和天皇陛下(以下陛下)のご逝去と真の病名を初めて公表した。享年87。激動の昭和の時代を生き抜いた一生だった。

 その日から1年3カ月半ほどさかのぼる。昭和62年9月22日、陛下は腸の通過障害を取り除くためのバイパス手術を受けていた。高木侍医長らは会見で「慢性膵炎の疑い」などと述べていた。

 「戦前は現人神とされ、戦中、戦後の歴史を生きた昭和天皇を一人の人間としてその病状を徹底して追うんだ。ほかには何もしなくていい」。当時の西俣総平科学部長からそう言われた。その日から私の474日が始まった。書き貯めた取材ノートは20冊を超えた。

 当時、宮内庁病院に厳重に保存された〝カルテ〟があった。横にケイ線が入ったA4の白い用紙。だが一人の患者としては異常に多い約50枚もあり、表紙には「聖上」の2文字。「術式=開腹による十二指腸吻合術」「手術時間2時間35分、麻酔時間4時間30分」と続く。住所と病名は書かれていなかった。

 記者会見では手術は無事終わったと強調された。だが、肺の両側には胸水貯溜、左下肺の軽い無気肺の症状。実は事態は深刻だった。執刀医は「命が縮む思いだった」と述懐している。

 

◆沖縄への強い思いだったか

  その後の治療は点滴と輸血を中心とした異例ずくめだった。陛下は持ち前の内臓、特に心臓の強さで病魔と闘い続けた。宮内庁からは連日「バイタルサイン」と呼ばれる血圧、脈拍などの基礎データは公表された。しかし詳しい病状は「菊のカーテン」で隠されていた。

 陛下ご自身はその後の闘病の結果、公務にも部分復帰された。年が明けた昭和63年1月2日には長和殿のベランダに姿を見せている。

 その年の8月15日。私は武道館にいた。「全国戦没者追悼式」に出席される陛下の姿を自分の目で確かめるためだ。足取りは少しおぼつかなかった。しかし「戦禍に倒れた数多くの人々やその遺族を思い、今もなお胸が痛みます」。そう述べられた「お言葉」はしっかりとしていた。思いもかけず胸が熱くなった。

 しかし陛下はその翌月の9月19日に大量の吐血をされ、重体と報じられた。その危機も乗り越えて吹上御所2階の病室に戻った10月のある日。つぶやいた一言に周囲にいた侍医や侍従はドキリとしたという。「もうだめか」。病魔と闘い続けた日々にあって「痛い」「喉が渇いた」などと一切口にされなかった陛下。「ご自分の病気のことではなく、切望しながら叶わなかった沖縄訪問のことだった」。ある侍医は私にそう証言している。

 

◆凛としたもう一つの闘病

  大量の吐血から4日たった9月23日。陛下の病状データは厳しい数値を示し、政府筋からは「陛下危篤」の情報が乱れ飛んだ。

 この日の夕刊で新聞各社は「天皇陛下重体」と大きく報じた。朝日新聞は同じ一面に「すい臓病変部はがん」との記事を載せた。

 編集局デスクでは激しい議論が続いた。その結果「陛下のご病気は十二指腸から発生した腺がん」とする記事が配信された。「一社により事実上紙面告知され、がん報道を控える理由はなくなった」との判断だった。

 バイパス手術の際に通過障害を起こしていた十二指腸壁から採取された数ミリの病変組織は2、3㍈に細断され、23個の標本が作られている。内視鏡診断からも原疾患は十二指腸下部末端から空腸に6㌢にわたる浮腫があり、悪性腫瘍であることを示していた。進行度が遅い高分化型に近い型のがんだった。

 陛下の病名診断は、病理学が専門の森亘東大学長や医学部病理学教室の浦野順文教授が極秘の検討会で決めた。その翌日、高木侍医長は「組織病変に細胞の異形成は認められなかった」と発言している。

 浦野教授は押しかける取材記者から逃れるように東大の教授室から姿を消したが、複雑な思いだった。「真実は必ず明らかにされなければならない。後日であってもだ」。そう語った当時、自身肝臓がんに侵され、告知されている。

 陛下の病状は回復傾向にあった昭和63年1月の13日。浦野教授の症状は悪化していた。とても講義ができる体調ではなかったが、病理検査の貢献でいただいた銀杯で水を飲み、自宅を出た。そして東大医学部で最後の講義に臨んだ。「病理学は生と死を扱う。病気と回復を繰り返して次第に死に至る」。50人を超す学生を前に凜とした姿でそう語り、夫人に付き添われて退席した。

 東大を出た後、皇居半蔵門に近いホテルロビーで夫人とクリームソーダを美味しそうに飲んだ。病院に戻りその2日後未明、静かに息を引き取った。55歳の若さ。陛下に約1年先立つ旅立ちだった。

 

◆公表された真の病名

  冒頭に記した昭和64年1月7日の朝に戻る。

 午前9時20分から記者会見に臨んだ高木侍医長はモーニングに黒ネクタイ姿で喪章を着けていた。「諸般の事由から慢性膵炎と公表してきましたが、最終診断は十二指腸乳頭部周囲腫瘍、腺がんとします」。その口調は穏やかだった。

 陛下のご病状を追った日々。侍医長の公表内容を聞いて全身から力が抜けたことをはっきり覚えている。時代は平成に変わった。車を手配して皇居前広場脇の大通りを通った。静かに頭を下げる何人かの市民はいたが、長い昭和の時代が変わったとは思えない静けさだった。

 その日、共同通信社から膨大な原稿が流れた。科学部からは1㌻分の企画記事「陛下のカルテ」、2㌻分の「昭和天皇の闘病日誌・全記録」が配信された。限られた公表内容の陰で陛下がどのような病床の日々を送られたのか。乏しい情報のすき間を埋めた「記録」だったと自負している。

 昭和天皇という患者に対する医療は「天皇だったからやったこと」「やらなかったこと」。その両方だった。連日の出血、下血に対する大量輸血と点滴による対症療法は黄疸や各臓器の機能低下を抑えた。全身に栄養と酸素を運ぶ血液を交換する徹底した輸血。それは一般人ではとても望めない特殊な、超の付く濃厚医療だった。

 時代は昭和、平成から令和へと変わっている。当時の関係者の多くが世を去った。こちらも歳を重ねた。自粛・自制の半面、過剰でもあった昭和天皇のご病状報道。「今の時代だったら、いろいろどうだっただろう」

 自分が育った昭和の時代の感慨とともにそんな思いがよぎる。

 

 うちじょう・よしたか

 一橋大学社会学部(社会心理学専攻)卒 1977年共同通信社入社 京都支局 大阪社会部 科学部 外信部 ワシントン支局 科学部長 人事部長 仙台支社長(東日本大震災担当) 常務監事 顧問 群馬大学・慶應大学招聘講師 科学技術振興機構(JST)編集長 一橋大学キャリア支援室 日本記者クラブ特別企画委員など 現在・共同通信客員論説委員 JST編集アドバイザー 国家資格キャリアコンサルタント 日本科学技術ジャーナリスト会議副会長など

 

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