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「ココム違反」と「地球サミット」/作家になった告発者書けず/リオ貧民街、取材せず悔い(長竹 孝夫)2021年7月

 新聞記者として何をやり、何を書いてきたのか。自分なりの「検証」をしたいと思っていたところ、偶然にも日本記者クラブ事務局から会報の「書いた話 書かなった話」の依頼を受けた。悩んだ末、頭に浮かんだのが二つ。警視庁担当時代の「東芝機械ココム違反事件」と環境庁担当時にブラジル・リオデジャネイロで開かれた「国連環境開発会議」(通称・地球サミット)である。会報のテーマに合うだろうか。わずかな記憶を頼りに回想する。

 

◆「ココム違反」って何?

 

 1982年~84年にかけて当時の大手メーカー「東芝機械」は貿易商社「和光交易」を通じ、ソ連に工作機械を不正輸出した。いわゆる87年に起きたココム(対共産圏輸出統制委員会)違反事件だ。和光交易社員がパリにあるココム本部に告発したのが発端。通報を受けた米国が内部調査で「工作機械がソ連の海軍の潜水艦のスクリュー静寂性向上に貢献した」と結論づけた。

 警視庁は「公安部では露骨すぎる」と防犯部生活経済課が主体となって捜査に着手した。防犯担当の私はサブキャップと「ココムとは何か」から調べ事件の真相に迫った。潜水艦のスクリューという難解な分野で刑事宅の夜回りは厳しかった。知能犯などを担当する捜査2課出身者が多く口は堅い。多くの担当記者は潜水艦のスクリューの構造など分からない。「静寂性」も理解できない。私も例外ではなかった。いちからの関係情報を基に自分なりの事件チャート図をつくり、複数の刑事に一つ一つ示すしかなかった。

 ある刑事宅の夜回りは、背広の内ポケットから出した独自の図を見せて「輸出の流れはこうですか?」と指をさす。刑事は「う~違うかなあ」と首を横に振る。「出直してきたらどう?」といった表情。丁寧なあいさつをしてその場を離れ、翌日再び、そして翌々日も…。時に別の刑事宅へ。何十回足を運んだだろうか。首を縦に振ってくれたら「特ダネ」につながるが、極めて少なかった。

 

◆「KGBに監視されている」

 

 和光交易の告発者は、東京・葛西地区のマンションに住んでいるとの情報。やっとヤサ(居住先)を割り警視庁1方面(丸の内)担当記者と2人で、会社がチャーターする車で向かった。ドアホンを鳴らすと「家の中にあなた方を入れられない。俺はKGB(国家保安委員会)に監視されている。あんたたちの車も分かっているよ。この辺りにKGBはいるんだ。外で話そう」と言った。彼は近くに止めた私たちの車に乗り込み「やばいから街を1、2周回ってくれ」と指示した。そして郊外のファミレスに入った。

 テーブルに着くとすぐに「メモとテープは駄目だよ」と彼。私が質問し同僚が会話を頭に叩き込むことにした。彼は1時間ぐらい、不正取引の実態などを淡々と話した。取材が終わりマンションに送り届けた。別れ際「今後どうされますか」と聞くと、彼はやや疲れた表情で「実は俺、東京外語大の英語科がだめでロシア語科に入った。だからロシア語しかない。翻訳にしろ、通訳にしろ、もうソ連の仕事は来ない。東京湾で釣りでもやるさあ」と言った。

 彼はしばらくして「熊谷独」のペンネームで作家活動に入った。93年に旧ソ連を舞台にした小説『最後の逃亡者』でサントリーミステリー大賞と共に直木賞候補となった。私が横浜支局デスクの時だった。元警視庁キャップの社会部長から一本の電話が入った。「長竹君、東芝機械ココム違反事件で熊谷さんと会ってたよね。直木賞が決まったら社会面に彼の『人となり』を書いてくれ。頼んだぞ。お前しかいないんだ」と泣きを入れてきた。

 私は「いやあ~だいぶ前の話ですね」と言いながらも「とりあえず警視庁記者クラブにココム違反事件のスクラップをコピーして横浜支局に送るよう言ってください。当時のことを思い出しますから」と言葉を返した。直木賞発表当日だった。再び社会部長から支局に電話が入った。「あ、直木賞外れたよ。もう人となりの原稿はいいわ」と言ってきた。これであの大事件の歴史上の人物について書くタイミングが消えた。

 今思い起こせば、直木賞から漏れたとはいえ、彼が商社マンとしてソ連を相手に食い込んだ実務の一端が書けたかもしれなかった。なぜその時、自分から「書かせてください」と言葉を発しなかったのか。

 

◆「防弾チョッキ」持参しリオへ

 

 もう一つは、92年の地球サミット。世界最大の環境会議とあって当時の環境庁記者クラブの加入者はやたらと多かった。社会部が中心のクラブなのに政治、経済、科学の各部のほか、NGO担当も出入りした。東京新聞と朝日新聞が幹事社だった。本番1カ月前のことだ。「リオデジャネイロの治安が悪い。ニューヨークの国連本部に会場が変わるかもしれない」と環境庁職員から連絡が入った。強盗や殺人が連日のように起きていたリオ。ブラジル政府は「警察や軍隊を投入して治安は全力で守る。会場がニューヨークに移るとブラジルの悪いイメージが残る」と猛反発した。国連事務方で議論の末、予定通りリオとなった。

 現地の治安に対するメディア各社の不安はぬぐえなかった。東京新聞は団長(部次長)のほか、社会部2人、政治部、経済部各1人、それにニューヨーク、ワシントン両特派員の計7人の取材態勢だ。万一に備えて海外の軍隊も使っている、弾丸が貫通しないという鉄板入りの「防弾チョッキ」3人分を日本でレンタルして持参することにした。いよいよ現地へ。24時間以上かけてサンパウロ経由でリオに到着。空港から街中まではタクシーを使った。ブラジル当局が事前に不審な人物やストリートチルドレンなどを「一掃」したのだろう。車窓からその姿は全く確認できなかった。宿泊先のホテル入り口には銃を構えた警官が2人、念入りに出入りをチェックした。

 サミット会場はリオ市内から専用バスで約30分の郊外で、連日ホテルから発車した。メイン通りには軍隊が100㍍間隔で配置され、少し離れた海上には巡視艇が見えた。172カ国(元首116人)が参加する会議が始まった。NGO代表も世界から2400人が集まった。

 米国のブッシュ大統領は安全対策でリオの空港からヘリで会場へ。本会議場の正面は複数の軍人が自動小銃を前方に構えて警戒。緊張した空気に包まれた。無事に環境と開発に関する「リオ宣言」(27原則)に基づく行動計画「アジェンダ21」が採択され、10日間の日程を終えたが、先進国と途上国のそれぞれの本音が表面化。ある意味「南北問題」が噴き出した会議でもあった。

 

◆「生きて帰れない」に躊躇

 

 サミット最終日。バスの窓からいつも見えていた遠方の山の斜面に輝く無数の光が気になった。「あの光は何ですか?」とドライバーに尋ねたところ南米最大の貧民街「ホッシーニャ」と分かった。約7万人が暮らす貧民街は、暗くなると一斉に家の電気がともるが、公道近くの電気や水道などを勝手に引き込んで生活している。ブラジル政府に聞くと「一度足を踏み入れたら、生きて帰れないよ。警官さえ入らない」と。間もなくして米国のテレビ局1社が独自で貧民街に入ったとの情報。管轄する〝親分〟に話をつけたらしい。日本のメディアはどこもノーマークだった。貧富の差を象徴する「現場」があったのになぜ取材方法を探らなかったのか。今も悔やまれる。

 

 ながたけ・たかお

 1980年中日新聞社(東京新聞)入社 浦和支局 東京・社会部(警視庁 都庁 環境庁) 特別報道部 横浜支局デスク 前橋支局長 社会部次長兼論説委員 校閲部長 編集委員(首都圏オピニオン担当)など経て 2018年12月退社 首都大学東京(現・東京都立大学)オープンユニバーシティ講師 獨協大学経済学部総合講座講師など歴任 現在 フリージャーナリスト 編著『無党派知事の光と影 激動の青島都政追跡』

 

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