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リー・クアンユーにみる指導者像/人を動かす言葉と知性(小池 洋次)2021年4月

 ジャーナリズムの世界に身を置いて、多くの人々に出会い、さまざまな経験をしてきた。その中で一番刺激を受けた人物は誰かと聞かれれば、迷うことなくこの人を挙げるだろう。リー・クアンユーである。シンガポール建国の父であり、世界から「アジアのオピニオン・リーダー」「小さな国の偉大な指導者」などと称賛されてきた。

 リーの言動に接し、この国の歴史や彼の歩みを調べるたびに、指導者とはどうあるべきか、その要件とは何かについて考えさせられ、多くの示唆や教訓を得たように思う。

 

◆特派員時代に5回インタビュー

 

 筆者は1985年から4年間、日本経済新聞のシンガポール特派員として活動し、この間5回、リーにインタビューすることができた。その後も、東京やワシントン、そしてシンガポールで何度か話を聞いている。

 シンガポールでのインタビューは毎回、同じ時間、同じ場所で行われた。午後3時、官邸(イスタナ)にある首相執務室においてである。官邸は市街地にありながら、緑に包まれゴルフのハーフコースもあるほど広大な敷地の中にあった。首相執務室は意外にも質素な作りで、部屋には執務机と、その近くに応接セットが置かれているだけである。リーとは90度の角度で座り、彼との間には小さな孔子像が置かれていた。

 初めてのインタビューでは極度に緊張したことをよく覚えている。まず質問状を送り、回答を文書で受け取り、それを読み、理解したという前提で、実際に会って質疑応答を重ねるという段取りである。回答は官僚がまず作成し、それにリーが赤字を入れるということであった。記者の英語がつたないとリーが席を蹴って出て行ってしまうと聞かされていたので、何度も質問を練習して臨んだものである。

 

◆メモ、資料、側近なしの真剣勝負

 

 リーの声は低く大きく、部屋中に響くようであった。眼光は鋭く人を射るようである。このような威圧感は、記者としてのインタビューで今に至るまで感じたことはない。「どこからでもかかってこい」と言わんばかりである。手元にはメモも資料もなく、側近もいなかった。

 シンガポールに赴任するまでに霞が関や永田町を取材した筆者にとって、これは驚きであった。日本では、首相や閣僚は記者会見等で、官僚があらかじめ用意した想定問答集に頼ることが多かったからである。

 リーへのインタビューで毎回感じたのは、言葉の重みである。筆者は多くのインタビューをこなしたが、彼ほどの言葉の重みを感じたことはなかった。自分の言葉で語り、また話し方が確信に満ちているから、そう思わせるのであろう。

 英国の植民地下で「英国紳士」となるべく育てられたリーが、コミュニケーションの重要性とその作法をたたき込まれたことは想像に難くない。もちろん本人の能力や資質は重要であるし、東洋のユダヤ人とも言われる客家がルーツであることも影響しているであろう。リーの祖先は中国の北方から流れて、南洋にたどり着いた。闘争心旺盛で、サバイバル能力にたけた人も多かった。ちなみに鄧小平や李登輝も客家の流れをくむと言われている。

 資源もない小国が生き残り、自国の発展を目指すには、誰が率いるかは極めて重要である。リーダーには国民を束ね、世界に対しては自国をアピールできる力量がなければならない。そのための重要な手段が言葉によるコミュニケーションなのである。

 リーへのインタビューには真剣勝負とも言える迫力があった。彼にとって一つひとつの言葉は武器であり、よくよく選んだうえで使わなければならない。

 激動の時代を生き抜いた経験と自負もあったであろう。経験が言葉を通じて迫ってくるような気がしたものである。彼が「危機」と言うとき、それは国の存亡の危機であり、時に自らの生命の危険を意味していた。

 リチャード・ニクソンは米大統領辞任後に出版した『わが生涯の戦い(In the Arena)』で、ダグラス・マッカーサー元帥の知識量や説得力に、政治家としての最高の評価を与え、「この点でマッカーサーに匹敵する人物はシンガポールのリー・クアンユーだけだった」と書いている。

 「危機感」を口にする内外の政治家は多いが、その表現が本物かどうかは、それまでの経験と、のちの行動をみればすぐ分かる。危機を語るなら、その理由を説得力のある表現で説明し、どう行動すべきかを具体的に語らなければならない。何より重要なのは、政治家としての実績を残すことである。

 リーは59年に、当時英国の自治州であったシンガポールの首相となり、長く国を率い、奇跡とも言われる経済発展を成し遂げた。同国は豊かさを示す一人当たり国内総生産(GDP)で、すでに日本を大きく超えている。もちろん、この国の発展には地理的な条件や歴史、そして国民の資質や努力が欠かせなかったであろう。だが、指導者の持つ強い危機感と行動力、そして明確なビジョンがなければ、生き残りが難しいとされた国がここまで繫栄できたか疑わしい。

 

◆占領下で日本軍「報道部」勤務も

 

 リーは数々の危機を乗り越えた。日本軍の侵攻と占領は若きリーにとっての最初の試練であった。筆者とのインタビュー(90年12月20日)では、日本軍兵士から収容所行きを命じられ、身の危険を感じて逃げたものの、その後の占領下で報道部という日本軍の情報機関に勤めたとも語っている。「ホードーブ」と言われ、一瞬戸惑ったが、すぐにそれが日本語であることに気が付いた。リーにとってこのころは、自分や家族がともかく生き延びることに精いっぱいであったろう。その後、指導者となってから最優先に考えたのは国としての生き残りである。余裕などない時代であった。建国後、かつて自らの命を奪いかねなかった日本から、むしろ積極的に学ぼうと国民に呼びかけたのも、国の生き残りのためである。

 次の、そして国としての最大の危機は65年8月9日に訪れた。シンガポールの将来を考えたとき、マレーシア連邦への参加しか道がないと国民を説得し合流が実現したにもかかわらず、その後2年で事実上、脱退を余儀なくされてしまったのである。これは、小さな小舟が大海に放り出されるようなものであった。絶体絶命のピンチであり、国の存続すら危ぶまれたのである。

 慶事であるはずのシンガポール独立は、リーにとって悲劇であった。その日の記者会見の様子は本欄掲載の写真から想像できるであろう。リーが涙を流したのは、この時と2010年にギョクチュー夫人を亡くした時の2回だけだったと言われている。

 この独立の際の危機感がリーのその後の政治家人生の基盤となった。用心を怠れば、危機の可能性は現実になってしまう。

 

◆回顧録の監訳を担当

 

 後年、日本経済新聞出版社からリーについての最後となる作品の監訳を依頼され、二つ返事で引き受けた。それは、若い記者たちによるインタビュー集で、聞き書きの「回顧録」とでも呼べる内容である。リーの思いと記者たちの緊張が伝わってくるようなやり取りであった。本書の出版は14年である。リーはシンガポールについて「沼地に立った80階建てのビル」と表現した。だからこそ安全保障の確保が最優先であり、国防相は「首相を除けば、閣僚の中で最強で、もっとも有能」でなければならないと述べたのである。リーの発言には、そうした認識をこれからの世代が共有しなければ国の将来は危ういとの危機感と、それを伝えたいという気迫がこもっていた。

 このインタビューは09年のことで、86歳のリーは計32時間にわたり質問に答え続けた。彼が世を去る5年ほど前のことであった。

 

 こいけ・ひろつぐ

 1950年和歌山県新宮市生まれ 74年横浜国立大学経済学部卒 日本経済新聞社に入り シンガポール支局長 ワシントン支局長 国際部長 日経ヨーロッパ社長 論説副委員長などを経て 2009〜19年関西学院大学教授 19年からグローバル・ポリシー研究センター代表 関西学院大学フェロー

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