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湾岸戦争終結から30年/サウジで痛感、「戦争取材の壁」(川崎 剛)2021年3月

 緊張は高まっていた。1990年8月、イラク軍がクウェートに侵攻して以来、米軍はサウジアラビアに着々と軍備を集積する一方、国連では米ソが協調してイラク非難決議を積み上げていた。ブッシュ大統領(父)や、ベーカー国務長官の演説はCNNで報じられ、ほぼリアルタイムでバグダッドからイラク側の反応が中継された。それを材料にホワイトハウスや国務省の会見室で記者たちが、米国の戦争への意志を値踏みしていた。

 

◆「そこにいること」が最大任務

 

 91年になり、育休中の妻と生後3カ月の娘がワシントンに到着した。数日もせず、米東部時間1月16日夕、多国籍軍のバグダッド空爆が始まり、湾岸危機は戦争に発展した。そして翌週、ワシントンで助手が見つけてきたガスマスクを手に、私はサウジアラビアの首都リヤドの米・サウジ合同情報局のプレスセンターに従軍登録した。年末から入っていた外岡秀俊さん(ニューヨーク支局)と交代して、最終段階でクウェート入りする外報部の記者が入ってくるまで、戦争の大半の期間、サウジでただ一人の朝日新聞の記者となった。戦況を報道する新聞紙上で、サウジアラビアのクレジットは欠かせない。だから最大の任務は「そこにいること」だった。

 戦争中、私たちはCNNのピーター・アーネットがバグダッドにとどまっていたことを知っていたし、ニューヨーク・タイムズのクリス・ヘッジスのように報道規制をまったく無視して活動する瞠目すべきジャーナリストがいたことを知っている。しかし、私はそうではなかった。

 私は、記者会見やブリーフィング、そして代表取材団(プール)のリポートに、東部港湾都市ダーランの部隊や物資の動きなど、数少ない自分自身の取材を交えて、戦況を送り続けることしかできなかった。

 

◆「町の声」の取材で逮捕の危機

 

 私だって社会部出身だ。「町の声」を取材しようとスーパーで、黒い服に包まれた主婦たちに近づくと、鞭を持った宗教警察に捕まりそうになった。サウジで女性の運転が禁じられている話は取材のとっかかりもつかめない。スーク(市場)には、金細工を売買する主婦たちがたむろしている。私を撮るふりをして後ろの女たちを撮ってくれと頼んだ運転手は、恐怖にこわばってついにカメラを手にとらなかった。

 逮捕されることが怖かった。すでにイタリア人記者が国外退去になっていた。軍服を着て地方に行ったら見つかったという。

 パキスタンのペシャワールから出稼ぎに来て長年住む運転手は、サウジの事情にくわしかった。斬首刑が公開される広場や、王墓の近くで貧しい寡婦たちが住む地域などを車で案内してくれた。しかし私は、車から降りて写真を撮ることも、人々に話を聞くこともしなかった。

 田岡俊次さん(アエラ編集部、社会部編集委員)が短期間入ってきたときには、旅行規制を破って、イラク国境のハファル・アルバタンに行った。そこで見たのは、サウジの他の地域では見られなかったアラブ兵(エジプト、シリア)の集団だった。盗み見しながら通り過ぎるだけで、カメラを構えることは控えた。

 朝日新聞では、海外特派員をはじめ社会部、写真部、週刊朝日やアエラなどの媒体が、戦場であるイラクと多国籍軍が展開するサウジアラビア入りを狙っていた。ヨルダンのアンマンには10人以上がたむろしていた。私には、東京から毎日のように別々の編集幹部から電話がかかってきた。「社会部のXのビザを優先してプッシュするように」「写真部のYを頼む」。それらの記者たちの申請書類は届いていた。しかし、顔を合わせるたびにその話題を持ち出したサウジ情報省高官は、明らかに朝日新聞とテレビ朝日を混同していたし、「大手メディアは一応入った」(リヤドの日本大使館)以上、多国籍軍に参加していない日本の記者をそれ以上受け入れる気配は、サウジ側にはまったくなかった。

 日本人よりもっと冷遇されていた国々があるのに気づいたのは、2月中旬、地上戦が始まる直前にリヤドに入ってきた記者たちがプレスセンターに現れたときである。韓国のほか、台湾、タイなどアジア途上国の記者で、そのとき、湾岸戦争報道は、先進国メディアの独占物ではなくなったのである。

 CNNで中継されたノーマン・シュワルツコフ司令官の記者会見で私が質問した翌日、ワシントンの留守宅のドアを隣人の女性がたたいた。「汝の夫は湾岸にいるか」「イエス」。それから教会の女性グループが連日、交代でわが家を訪ねてきたという。「カップケーキを焼いた」「困っていることはないか」……。アメリカ人を嫌いになることは、難しい。

 

◆「史上最良の戦争報道」と米報道官

 

 発表とブリーフィング以外の戦争取材は難しかった。爆撃機の出動回数や、どこかわからない精密爆撃の映像を見せるだけで、軍は肝心な点に徹底的にノーコメントだった。作戦の情報は極度に少なかった。広大な砂漠の国では「現場に行く」という取材の基本手法も通じない。

 戦場に行った記者と軍の公式発表とのギャップが広がって矛盾があらわになっていったベトナム戦争に対して、記者の行動も記事も軍がほぼ管理しきった湾岸戦争。「それについては言えない。なぜ言えないかも言えない。なぜなら、なぜ言えないのかを言えば、それについて言っていることになってしまうからだ」。ピート・ウィリアムズ国防総省報道官の答えだ。彼は、プール取材制度で記者たちの自主的な動きを封じた湾岸戦争のメディア管理を「史上最良の戦争報道だった」と自讃した(ワシントン・ポスト 91年3月17日)。

 地上戦開始後、シュワルツコフ司令官は記者会見で、イラク軍を欺くため、ペルシャ湾からの上陸作戦に関する偽情報を積極的に流し、実際の地上作戦に関しては厳しく報道統制したために、作戦がうまくいった、メディアのおかげだと言った。隣の記者が怒った。「他に何をだましたのか」と。

 

◆「攻撃された側の映像」の重要性

 

 湾岸戦争で、もしピーター・アーネットたちのようにイラクにとどまったメディアがなければ、バグダッドの空爆の様子や高射砲の姿を見ることはなかっただろう。そうすれば、私たちの湾岸戦争のイメージは、軍事拠点とされる施設の精密爆撃の映像しかなかっただろう。湾岸戦争の記憶に、攻撃された側の映像があることは大きな意味を持つ。なければまったく違った戦争イメージになったはずだ。メディアの手が及ばなかったルワンダやコンゴの虐殺は、証言がいくら積み重ねられてもイメージに結実しない。ナチのユダヤ人強制収容所のイメージが人々に強く印象づけられているのと対照的である。

 クウェート占領6カ月。多国籍軍の空爆42日。地上戦5日。イラクは91年3月3日、暫定停戦条件を受諾して敗北した。

 CNNやニューヨーク・タイムズなど米主要マスコミ17社は91年6月、湾岸戦争での代表取材や検閲と報道の自由に関する報告書で、戦争報道のありかた10項目を提案し、当時のディック・チェイニー国防長官に報道規制の再考を促す要望書を提出した。国防総省は受け取ったが、回答はなかった。

 ベトナム戦争以来、軍はメディア規制を積み重ねて体験化したが、メディア側の対応は常にその場限りだ。11年後のイラク戦争で、新たにメディアに持ちかけられたのはエンベッド取材だった。

 

 かわさき たけし

 1954年鹿児島市生まれ 80年朝日新聞社入社 長崎支局 西部本社社会部 ワシントン ナイロビ 外報部 企画報道部 アジアネットワーク事務局長 ジャーナリスト学校主任研究員などを経て 2014年退社 現在 津田塾大学非常勤講師

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