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JNN三陸臨時支局/大震災取材で民放初の「通信部」/系列の総力が生んだ〝奇跡〟(龍崎 孝)2021年2月

 「このまま東京に居続けていいものだろうか」

 2011年3月、東日本大震災の発生から10日ほどたったある晩、ビールを飲みながら考え込んだ。TBSの多くの記者やカメラマンが被災の現場でいま取材を続けている。一方、自分は政治部のデスクとして、日々菅直人政権の動向を注視している。役割分担といえばそうだが、果たしてこのまま未曾有の災害を自分の足で取材しないで「記者」といえるのか。首都圏では計画停電が実施されていたが、都内は「別格」とばかり普段とあまり変わらない生活に戻りつつある。何より自分は今、一息ついているではないか。このまま「安全地帯」にいて、いずれ記者稼業から卒業した時に胸が張れるだろうか。

 と、思いついた、「あ、通信部という方法がある」。民放テレビ局はTBSも含め地方の系列放送局と友好関係で結ばれたネットワークで、全国のニュースをカバーし合っている。被災した岩手県や宮城県、福島県などではJNNの場合、その県にある岩手放送、東北放送、テレビユー福島の各局が放送の主体であり、TBSやJNN系列局から送り込まれるクルーは「応援」という形態をとる。JNNの中核であるTBSからデスクなども派遣するがあくまで当該局のサポートであり、言い換えれば「共同運航」ともいえる。ネット番組のスタッフもあまた取材に入るが、限られた時間内で現地取材し、東京に戻って放送に結びつける。

 

◆被災地駐在希望、支局開設へ

 

 今思うと当時よく使われた、被災地に「寄り添う」とはまさに絶妙な表現だった。そば近くに「寄り添」ってはいても、被災地、被災者と一体ではないのだ。あくまで傍観者にすぎない。だが、新聞社の通信部(局)の記者は、取材地に住み、24時間、警察も行政もスポーツも、ジャンルを問わず取材を続け、任期を終えると別の赴任地に去る。あくまで「よそ者」の視点を持ちながら、暮らしと取材を一体とする。

 テレビ局の取材で抜け落ちていたものは、「寄り添う」だけでなく「共に暮らす」「24時間そばにいる」取材ではないか。そう思い付くとその場で、星野誠報道局長(当時)にメールした。「被災地に行かせてください、一人でデジカメもって駐在します」。すぐに戻ってきた返事は「わかった、でもちょっと考えさせて」だった。 

 1週間後に星野局長が明らかにしたのは、「被災地に支局を設ける」というスケールアップした発想だった。支局となれば放送の送出機能を持ち、取材体制も大がかりなものになる。新聞記者時代の経験から「3年間行きたい」と再び報道局長に伝えると「支局をまかせるからまず1年行ってみて。ただし君は記者というより『行政職』だから」と申し渡された。こうしてJNN三陸臨時支局の構想はスタートした。

 

◆未知数だった全国からの人員集め

 

 無理難題をお願いして気仙沼市内のホテルで支局開設にこぎつけた経緯は日本記者クラブ会報「リレーエッセー」(2016年7月号)に書かせていただいた通りだが、さて支局がスタートするにあたってはもう一つの難事があった。

 「行政職」ともなれば、自分がそこでなにを取材するかというより、全国からスタッフを集め、どのように取材をしてもらうかを考えるのが主務である。重大なポイントがあった。大阪の毎日放送=MBSの動向である。取材体制は4クルー、1中継チームと決まった。4クルーのうち2組はTBSと東北放送が派遣し、残り2組は北海道、名古屋、大阪、福岡にある準キー局が1カ月交代で1クルー、全国の地方局が2週間交代で1クルー出すことになった。震災直後の混沌とした中での、かつJNNにとって初めての試みに、各局がどのような経験を持ったクルーを派遣してくるか未知数だった。つまり支局の取材団の力がどの程度になるか、そこがスタート時の最大の課題だったといえる。支局長の私からは派遣する各局に対し「誰を送ってほしい」とは言えない。

 さて、新聞社でも同じような傾向があると推察するが、東京に「対抗」する大阪の放送局の意向は系列全体に影響を及ぼす。はっきり言えば、大阪の毎日放送がどのような協力姿勢を示すかで、三陸臨時支局の存在もパワーも大きく影響を受けるということだ。阪神・淡路大震災を経験した毎日放送の「震災報道」への思い入れは強く、この時すでに応援部隊とは別に、宮城県南三陸町を対象に独自の定点取材体制を整えつつあるほどだった。逆に言えば後発の三陸臨時支局にクルーを派遣する余力はあまりない、とも考えられた。

 

◆MBS、府警キャップ派遣の英断

 

 やきもきしながら気仙沼プラザホテルで5月1日に予定される支局開設の準備を進めていると、毎日放送から電話があった。「今日の午後、うちの社長がそちらに行きます。支局を見たいというので」。毎日放送は被災地で不足がちのラジオを提供する支援活動を始めており、被災自治体を訪問した河内一友社長(当時)が、岩手県内を回ったその帰路に立ち寄るとのことだった。

 その日午後、河内社長とは放送機材が積まれた支局の送出ルームでお会いした。1時間ほど、気仙沼の現状や見聞きした様子、支局開設に至った経緯などをお伝えしたと思う。緊張していたのだろう、今私の記憶に詳細なやり取りはない。2人だけで向かい合って座り、ただ淡々とお話をさせていただいたように思う。支局の窓からは3月11日の夜、猛火に包まれた気仙沼湾が広がっている。目を遠くにやれば、真っ黒に焦げ付いた大型漁船が、海岸線に横たわっているのが見える。「わかりました、この支局は必要です。毎日放送は協力します」。河内氏は会話の最後をそう結び、大阪に戻っていかれた。

 翌日だった。MBSの報道幹部から電話があった。「(大阪)府警キャップを行かせます、1カ月。使ってやってください」。被災地に応援クルーを何組も出している中で、留守を預かる大阪府警キャップの存在はとてつもなく大きいはずだ。いや、平時にあってももちろんそうだ。その府警取材のトップを支局に派遣してくれるのは「英断」というほかない。「涙が出るほどうれしい」とはまさに、この時こそ使う言葉だった。

 

◆気仙沼に集結した多彩な記者ら

 

 「MBSは府警キャップを支局に送り込んだ」この決断は系列局にどのように響いたのだろうか。

 私には当時も今も確認するすべもない。ただ、三陸臨時支局にやってきたJNN各局の記者たちは、多彩だった。志願して2度も赴任した女性記者は、被害を受けたカキ漁師が再び立ち上がったことを自分の目で確かめた。準キー局のベテラン遊軍記者は夜の避難所に入り込み、消灯までカメラを回し続け、被災者の本物の言葉を引き出した。居ても立っても居られない、と三脚を担いできた報道制作局次長がいた。約束の赴任期日が終わっても本社に戻らず、車に泊まって取材を続けていた猛者もいた。「三陸の生き物はどうなってしまったのかを知りたい」と言ってやってきた大学院出の理系女性記者は、その後ガラパゴス諸島に渡りチャールズ・ダーウィン研究所のスタッフになった。三陸で初めて全国中継デビューした北陸の記者たちは、その後地元市議会の不正を暴き、ドキュメンタリー作品を世に問うた。

 これらの記者たちすべての取材に立ち会えた幸せは、気仙沼に1年間暮らしたからこそだろう。政治部という職場を1年にわたって放棄した「罪」は、「JNNには被災地に24時間いつでも飛び込める取材拠点がある」という安心を守り続けたことで許してほしい。思いかえせば三陸臨時支局とは、JNN系列の責任感と誠意が生んだ〝奇跡〟だったかもしれない。

 

りゅうざき・たかし

1984年毎日新聞社入社 浦和支局 東京本社政治部などを経て 95年に東京放送(現TBSテレビ)入社 報道局政治部 「報道特集」 JNN昼ニュース編集長 外信部デスク モスクワ支局長 政治部長 報道局担当局次長 解説委員 JNN三陸臨時支局長(2011年4月から12年3月) 16年4月から学校法人日通学園 流通経済大学スポーツ健康科学部教授

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