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『永遠なれ 住田文庫』を上梓して(湯浅 博)2021年1月

 86㌻、300部の小さな冊子がサンケイ総合印刷から手元に届いたとき、大きな満足感に包まれた。ベージュのキャンバス地模様にキンセンカをあしらった表紙に『永遠なれ 住田文庫』の筆文字が浮かび上がる。それぞれの短い文章の中に、故人と蔵書と人生が語られ、とても温かく、知的で、興味深い冊子に仕上がったと思う。

 この冊子は、2013(平成25)年6月11日に68歳の若さで亡くなった元産経新聞社長、住田良能の蔵書への愛着から、幾枝夫人が「蔵書のあとさき」に関わった人々に綴ってもらいたいとの思いから生まれた。住田は生前、自宅に残した宝物のような数万冊の蔵書の行き先を気にして、幾枝夫人に託されていた。

 

■結婚祝いに折口信夫全集所望

 

 幾枝夫人の「はじめに」によると、結婚されたときにはすでに、思い入れの強かった『河合栄治郎全集』の23巻と別冊1巻をはじめ、夏目漱石、小泉信三、福沢諭吉、柳田国男、スターリン、王陽明などの全集を保管していた。幼なじみの父上である元首相の三木武夫氏から、結婚の祝い品について「銀食器でも夫婦茶碗でも」と問われた。住田は「では、『折口信夫全集』31巻をお願いします」と所望したことに、夫人は目を白黒させられたようだ。

 住田が外信部記者や論説委員をしているときには、自宅に緊急電話が鳴って、本棚のどの棚にある本のどの㌻を印字して「ファクスで送ってほしい」との注文が飛び込むことがよくあった。そのたびに幾枝夫人は、彼が自分の所蔵の本のすべてを熟知していることに舌を巻いていた。

 

■「ミニ河合栄治郎」の異名も

 

 住田人脈は新聞界のほかに左右の全体主義と闘った自由主義思想家、河合栄治郎の流れをくむ人々との交流が大きな比重を占めた。河合の死去後に猪木正道、関嘉彦、土屋清ら弟子たちがつくった社会思想研究会に関わって勉強に励む。元論説委員長の吉田信行氏にいわせると、住田は独断的、ワル好きなところ、さらに「弁が立ち、議論に強く、英語と中国語を自在に操っては要人との関係を築く」ところから、「ミニ河合栄治郎」という異名を進呈している(吉田著『産経新聞と朝日新聞』産経新聞出版)。

 住田が外信部長から編集局次長、編集局長への道を歩み始めたころ、筆一本の編集委員、論説委員への道に後ろ髪を引かれていたことがあった。尊敬する帝塚山大学名誉教授の伊原吉之助氏から「記事だけでなく、本を残しなさい」と諭されたが、その類いまれな指導力から編集幹部から社長への道を歩む。

 社会思想研究会の先輩、杏林大学名誉教授の田久保忠衛氏は、その社長室に足を踏み入れた印象を「新聞人の飯場だ」とうなる。雑多な本の間から、住田社長が顔をのぞかせていたからだ。それらの蔵書は、友人たちの書棚に新たな住み処を見いだし、数千冊の寄贈を受けた友愛労働歴史館に住田コーナーができ、英語と中国語の本を含む2千冊がアジア図書館で留学生たちの知識吸収の糧になる。

 病魔に襲われてからも、住田は産経新聞のことはもちろん、新聞界の先行きが気になって「変化に対応するだけでなく、先回りして変化を待ち伏せよ」と、社の後輩幹部にデジタル分野の先行きを語っていた。

 冊子づくりに関わって思うのは、住田が優れたジャーナリストであると同時に、日本の国柄と行く末を見つめながら言論界をリードした憂国の新聞人であったこと。同時に、家族に注がれるまなざしは、厳しさの中に優しさが溢れていたことが、冊子からうかがわれることを付記したい。

 なお、冊子『永遠なれ 住田文庫』は、産経新聞秘書室にわずかな残部があります。

 (ゆあさ・ひろし 産経新聞社客員論説委員)

 

*住田氏は1997年から2011年まで日本記者クラブ会報委員長、11年から12年まで同副理事長。14年間の委員長職はクラブ最長記録。冊子発行にあたり編集を担当した湯浅氏にご寄稿いただきました。

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