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96年米大統領選 クリントン氏再選/〝三角測量作戦〟が可能だったころ(飯山 雅史)2020年12月

◆主戦場は「黄金の中間地帯」

 

 ワシントン特派員だった1996年の米大統領選挙というお題をいただいて、当時の取材メモを眺めていたら懐かしい文字に出くわした。

 「トライアンギュレーション(triangulation)」

 「三角測量作戦」と訳していたように記憶している。アメリカの過激な保守派と過激なリベラル派のイデオロギー的位置を測量して、再選を目指すクリントン大統領の政策的立場を、正確にその真ん中にもっていくという作戦だ。しかも、左右の同じ直線上でなく、一段上の高みから党派対立を見下ろす立場を目標にするので、クリントンは三角形の頂点に立つことになる。彼の盟友で、著名な選挙コンサルタント、ディック・モリス氏が名付けた戦法だ。

 もっとも、彼の独創的な戦術でもなんでもない。当時アメリカでは、保守もリベラルも有権者人口の約3分の1ずつだったから、両党とも、それだけでは勝てない。主戦場は残り3分の1の穏健派であり、選挙コンサルタント業界では「黄金の中間地帯」と呼ばれていた。彼らの心をつかむには常識的で安心できる政策が必要で、両極端の過激派からは距離を置くのが〝選挙業界〟の常識だった。だから、予備選では両候補とも鮮明な保守かリベラル政策を主張するが、本選挙では中央に寄ってきて争点があいまいになる、というのが定番の選挙解説だったのである。 

 クリントン大統領の世論調査好きは度を越していて、民主党全国委員会はほとんど毎日の調査費用で悲鳴をあげていた。結果分析は、これも著名なポールスター(世論調査の専門家)のマーク・ペン氏。その日の調査結果は夜中に彼に届き、遅くまで分析して毎朝7時にホワイトハウスに向かう。スタッフ会議では「昨日は、クリントンの位置がややリベラルに寄り過ぎていたので、今日の遊説では、このテーマでニュアンスは少し保守寄りに」などとアドバイスをする。彼からこんな話を聞いたとき、まるで、ペン氏が古いラジオ受信機を操作するように、ダイヤルをゆっくり回しながら穏健派の周波数を探り当て、それに合わせてクリントンの位置を微妙にチューニングしているのに驚いたことがある。もっとも、そこから出てくる政策は「荒れた学校を正常化するために、制服を導入しよう」なんて、市長選挙みたいな退屈な話が多かったけれども…。 

 だが、そんな感想は今年の選挙戦では縁遠かった。すでにあのころ、宗教右派の拡大で国民の分極化が目立っていたが、四半世紀後の今、この国は保守とリベラルの二つの民族に分かれ、共生できなくなってしまったようである。黄金の中間地帯は絶滅危惧民族となり、トライアンギュレーションは選挙戦略として成立しなくなった。

 

◆教訓生かし中道政策で勝利

 

 クリントン大統領のトライアンギュレーションは、苦い教訓から生まれたものだった。彼は、1992年の大統領選挙で中道のニューデモクラット路線を訴えて初当選した。だが、もともと彼はリベラル色の濃い反戦ベビーブーマーだ。政権発足後は勢い込んで国民皆保険へ突き進み、同性愛者の軍入隊を許可して穏健保守派の嫌悪感を買う。その結果、次の中間選挙で40年ぶりに下院を奪われる歴史的大敗北を喫してしまったのである。

 ところが、今度は「保守革命」の勝利にうかれた共和党のギングリッチ下院議長が、まるで革命軍総司令官のようにクリントン政権を攻め立てた。彼は国家予算を人質にとって政権と対決し、ついに予算切れで政府を機能停止に追い込んでしまった。すると、世論は一転して過激なギングリッチ議長を見捨て、彼の支持率は急落してしまう。

 ここでトライアンギュレーションの出番である。クリントン大統領の変わり身は早い。再選を目指す96年の年頭教書では「大きな政府の時代は終わった」と宣言し、福祉の大幅削減など、保守的な「小さな政府」イデオロギーを横取りする政策発表で支持を集めた。見事な三角測量作戦で、好景気も追い風となり共和党のボブ・ドール候補に序盤から大差をつけて大統領選に圧勝した。

 このように、アメリカの世論は一貫して過激な保守も過激なリベラルも敬遠してきたのである。それはこの年に限らない。アメリカの20世紀は、当初、保守的な小さな政府の下で未曽有の繁栄を謳歌したが、その自由放任政策が行き過ぎた時には大恐慌を生んでしまった。破綻した経済を救ったのはニューディール・リベラルの大きな政府政策だ。その後リベラル派は、国民の絶大な信頼を獲得して全盛の時代を迎えることになる。だが、やがて福祉の急拡大などで財政赤字が膨らみ、60~70年代にヒッピーやフリーセックスの対抗文化の時代になると、「リベラルの行き過ぎ」に反発した穏健派が民主党に背を向けて、レーガン政権から保守全盛の時代が生まれていく。

 つまり、保守とリベラルのどちらに振り子が触れても、行き過ぎた時には真ん中に戻そうという世論が働いてきたのである。引き戻す力を生んだのは、左右どちらでも過激派を嫌う「黄金の中間地帯」の世論だった。それが、多くの過ちを犯しながらもアメリカの民主主義に安定感を与えてきた源泉だったのだろう。

 

◆過激な方向に向かう米国民

 

 だが、この中間地帯は明らかに変調をきたしている。近年の世論調査で、穏健なリベラル層と穏健な保守層は年々やせ細り、国民意識はより過激な方向へ移ってきた。背景にはグローバリズムの勝ち組と負け組の対立や、多文化主義を受け入れるインテリと、それを偽善とあざける白人ナショナリズムのいがみ合いもあるだろう。アメリカは「陰の国家」に牛耳られているという幼稚な陰謀論さえ信じる人も広がっている。確かに穏健派の民主党候補、ジョー・バイデン氏が勝利を確実にしたが、トランプ大統領支持者が依然として半数近いという事実の方が不気味である。

 アメリカ建国の父は、権力が暴走しないように三権分立や連邦制など極めて慎重に政府制度を設計した。だが、民主主義はメカニズムだけでは生き残れない。政治の現場でおきるすべてのことを憲法が想定するのは不可能であり、最後は制度を運用する人間の見識に委ねられる。だから、選挙による権力交代や法の支配、論敵は〝敵〟ではないことなどの基本ルールに強固なコンセンサスがなければ、民主主義は維持できないのである。

 

◆民主主義支えた草の根集会

 

 96年のノートには、初の党員集会があるアイオワ州で、もう一つ胸にジーンとくる取材があった。民主党支持者20人ぐらいが雪の降る夜、民家の居間に集まって、暖炉を前にお茶を飲みながら党綱領の議論をする草の根集会である。父親の横に座った高校生は、人前で政治的なスピーチをするのは初めてなのだろう。顔を真っ赤にしながら、「家族の価値」は保守派の主張ではあるものの、今のアメリカの中では大切な価値観なのではないかと訴えた。学級会のようだったけれども、市民が政治討論に親しみ、子供が筋道の通ったスピーチをする訓練を受ける場所。民主主義を底辺で支える大切な装置の一つだった。アイオワ州の各地で開かれていたという。

 今でも、こんな寄り合いが開かれているのだろうか。それとも、もはや、それはおとぎ話の世界になってしまったのだろうか?

 

いいやま まさし

1957年東京都生まれ 80年読売新聞社入社 政治部 リオデジャネイロ ワシントン支局 調査研究本部主任研究員などを経て 2014年退社 現在 北海道教育大学国際地域学科教授 アメリカ政治専門

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