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20世紀末ジュネーブ、国際交渉取材の日々/難民問題、ダボス会議、IOC(山口 光)2020年11月

 

 冷戦構造の終結と旧ソ連邦の解体そして湾岸戦争、ボスニア・ヘルツェゴビナ内戦など20世紀末に向けて世界の国際秩序が大きな転換期を迎えようとしていた1990年代初め、共同通信社のジュネーブ支局長として3年余り取材にあたった。

 欧州国連本部があるジュネーブはまた各国の利害がぶつかり合う国際交渉の舞台だった。「ニューヨークの国連が政治的なアピールの場とすればジュネーブは現実の交渉の場だ」といわれていた。実際に、新多角的貿易交渉が大詰めの時期を迎えて日本の米の自由化問題が焦点となっていた関税貿易一般協定(ガット)や世界保健機関(WHO)、難民高等弁務官事務所(UNHCR)などの各国際機関の取材に追われた。

 今振り返ると、ジャーナリストというものは本当に歴史の動きの一握りの断面を追いかけその表層をなぞっていたに過ぎないのではないかと思う。しかし、取材現場で、当事者たちが語る言葉を聞きながら歴史の一コマ一コマを記録し伝えていくことがやはり大事な記者の営みなのだ。

 

◆緒方貞子さんに同行、サラエボへ

 

 そんな中で思い出深いのは、湾岸戦争中の1991年2月、イラクで膨大な数のクルド人難民が発生した頃、日本人初の難民高等弁務官に緒方貞子さんが着任したことだった。緒方さんは私が大学生の頃外交史の講義を受けた恩師でもあった。

 緒方さんは難民高等弁務官に着任早々、重大な試練に直面。イラク北部での戦闘で迫害を恐れたクルド人の難民130万人がイラン国境に、45万人がトルコ国境の山岳地帯に押し寄せたことだ。トルコは国内のクルド人の独立運動に手を焼き、クルド難民の受け入れを拒否、UNHCRとしては、「国内避難民」にどう対処するかを問われた。もともと難民の地位に関する条約は人種、宗教、国籍、政治的意見の違いなどを理由に迫害を受ける恐れがあって、自国の外にいる人々を「難民」と定めている。住んでいるところを追われても自国内にとどまっている場合は条約上の「難民」ではないため、UNHCRの難民保護の本来の任務ではないという問題だった。

 緒方さんは組織内の原則論からの反対にもかかわらず「難民と同様の状況にありながら、現状が難民の定義に合わないために不合理な状況が生じているなら、原点に返って人の命を救うことだ。国境を越えていようがいまいが、保護を必要としている人を保護することには変わりない」と、クルド人避難民のイラク国内での保護活動を決断、イラク国内にUNHCRの難民キャンプを作った。

 もう一つの難題は、旧ユーゴスラビア連邦の解体後の激しい民族対立の中で起きたボスニア・ヘルツェゴビナ内戦での人道支援だった。セルビア系、クロアチア系、イスラム系の3つの民族間の対立が独立をきっかけに激化、激しい内戦が続いた。セルビア人勢力は圧倒的な軍事力でサラエボを包囲、イスラム系を中心とする約40万人のサラエボ市民が銃弾に怯えながら飢えに苦しんでいた。

 UNHCRはサラエボ市民のために食料などの人道支援物資の空輸を開始。現場主義を貫いていた緒方さんは92年7月、英空軍機でサラエボを訪問、防弾チョッキ姿で国連軍の装甲兵員輸送車でサラエボ市内に向かい国連の救援活動の様子を自ら視察した。筆者もドイツ空軍機でサラエボ入りしたが、防弾チョツキがないため空港で待機。緒方貞子難民高等弁務官はボスニア指導部やセルビア系住民指導者との会談後、空港で記者会見し「サラエボ以外の多数の難民を抱える地域に救援物資を届けるためには、空輸作戦では不十分で、一日も早く陸路による大規模なトラック輸送体制を確立する必要がある」と強調、その後これを実行した。

 緒方さんは、「人間の命を守ることが大事」という価値観から国家主権の枠を超えて、政治や軍事の枠組みにも対応しながら現実的な解決策を模索しなければならないことを深く認識し、国際的な人道支援の場を大きく広げた人だったと思う。          

 

◆ダボスで初代ロシア首相が会見

 

 毎年1月末、雪深いスイスのダボスに世界の政治、経済の指導者たちを集めて開かれる世界経済フォーラムのダボス会議は、その年の世界の課題を浮き彫りにする。90年から93年にかけてのダボス会議の焦点は、冷戦構造終結後の世界の新秩序の在り方やグローバル化の問題だった。

 印象に残っているのは、ソ連解体後のロシアからやってきたチェルノムイルジン首相だ。就任直後に参加、外国での初の記者会見でロシア経済が大規模な失業、インフレなどで極めて深刻な事態に直面していることを認め、市場経済への移行推進のため、日米欧の投資受け入れに積極的な姿勢を示した。また日本との北方領土問題に関する質問に対して「ロシア政府内で今後議論する機会を見いだしていくことになる。日本とも協議することになるだろう」と初めて言明した。

 南アフリカのネルソン・マンデラ大統領が92年の会議に初参加、国有化政策からの転換と市場経済の導入、海外投資の受け入れを認める姿勢を表明したことも時代の変化を示すものだった。

 またそのころのダボス会議では、ソニーの盛田昭夫会長が共同議長を務めて、会議の議論をリードし、多数の日本の指導的経済人や政治家たちがダボス詣でをしていた。92年の竹下登元首相、93年には半年後に非自民政権の首相となった日本新党代表細川護熙氏の参加も注目された。

 

◆共同がIOC公認通信社に

 

 ローザンヌの国際オリンピック委員会(IOC)本部にはジュネーブから車で何度も通った。当時共同通信社はIOCの公認通信社としての地位を獲得すべく様々な働きかけをしていた。理事会後の記者会見のカバーだけではなく、犬養康彦・共同通信社長のサマランチ会長宛ての書簡を手渡したり、IOC広報担当のミシェル・ベルディエさんや、会長側近のフェクルー・キダネ氏と親しい関係を構築することも目的だった。

 バルセロナ五輪が開かれた92年8月、犬養社長がサマランチ会長及びゴスパー報道委員会委員長とバルセロナのホテルで会談したとき私は通訳も兼ねて同席。この会談で、共同通信社のIOC報道委員会への参加の道が開かれ、これまでAP、ロイター、AFPなど国際通信社が独占していたIOC公認通信社の一角に共同通信社も加わることになった。IOC理事会は94年6月共同通信を98年長野冬季五輪の「オフィシャル・ニューズエージェンシー(五輪公式通信社)」に決定、スポーツ報道の分野で共同が国際通信社として認められた。

 その後私は長野五輪組織委員会のメディア責任者兼スポークスパーソンとして活動することになった。取材する立場から、組織委員会の広報報道担当責任者として情報発信する立場への転身だったが、なんとか職責を果たすことができたのも、同僚のサポートとジュネーブ時代に親しくなったIOC本部の幹部たちの支えがあったからだと思う。

 IOC本部でサマランチ会長に長野五輪組織委のメディア責任者就任の挨拶をしたとき、サマランチ会長は「オリンピック報道は映像も大切だが、活字メディアが大事な役割を持っている。テレビ報道は競技の放映は別にして通信社などの活字メディアがニュースを報じた後それを追いかける。オリンピックの成功のためには活字メディアのニュース取材を大切にしなければならない」と語った。インターネットがない時代のことだが、ジャーナリズムの原点を理解していた。

 サマランチ会長の側近フェクルー・キダネ氏との交流も思い出深い。エチオピア出身の国際スポーツジャーナリストでアフリカなど途上国のオリンピックムーブメントに力を入れていたサマランチ会長の右腕となって活動していた。キダネ氏とは長野五輪のメディア対策の他、環境保護やオリンピック開会中の停戦(エケケイリア)、平和維持への取り組みなどについてニューヨークの国連本部で訴える活動をともに行った。

 延期された2020東京オリンピック・パラリンピック大会ではオリンピック停戦や平和への働きかけはどうなっているのだろうか? コロナ禍の中での大規模国際スポーツ大会の実施には大きな困難が伴うと思うが、なんとか成功することを願う。

 

やまぐち・こう

 

1944年岩手県生まれ 68年共同通信社入社 政治部 外信部 サイゴン バンコク ニューヨーク各特派員 ジュネーブ支局長 98年長野冬季オリンピック日本組織委員会メディア責任者 2002FIFAワールドカップ日本組織委員会広報報道局長 2002年から共同通信社 国際局長 経営企画室顧問

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