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21年前のクリントン弾劾裁判 躊躇した「性的関係」の詳細描写(樫山 幸夫)2020年4月

  人のうわさも75日というものの、気ぜわしい昨今、1カ月前のことでも記憶のかなたに消えてしまう。コロナウイルス危機などがあればなおさらだ。

 ウクライナ疑惑をめぐるトランプ米大統領の弾劾裁判なども、そうだろう。しかし、この事件、私には特別の感慨があった。20年以上も前、1年以上にわたって取材に憂き身をやつした「もうひとつの弾劾裁判」を思い起こしたからだ。ビル・クリントン大統領の不倫・偽証疑惑―。すでに歴史の範疇に入ったあの騒ぎだ。

 

◆判事の前で不倫を否定

 

  その日のワシントンは厚い雲が低く垂れこめ、今にも雪が舞ってきそうな空模様だった。私はホワイトハウス近くの古風ながら格式のあるビルの前で、寒さに震えていた。1998年1月17日、土曜日だ。

 顧問弁護士の事務所で、クリントン大統領が、アーカンソー州知事時代のセクハラ疑惑の訴訟をめぐって、判事立ち合いの下、宣誓供述をしていた。

 待つこと数時間。証言を終えた大統領は地下駐車場から逃げるようにホワイトハウスに戻ってしまった。待ちぼうけを食わされた報道陣はただあっけにとられるだけだった。

 驚き、好奇心で全世界を狂乱させたクリントン氏の大スキャンダルの幕開けだった。

翌週、ワシントン・ポスト紙など一部メディアの報道に仰天した。

  自分の娘とそれほど年の違わない20歳そこそこのホワイトハウス女性実習生と不倫関係をもっていた大統領は、セクハラ裁判の宣誓供述の際にこのことを聞かれ、事実にもかかわらず、否定したという。報道の通りなら偽証罪の疑いがあり、メディア、国民の大騒ぎが始まった。

 州知事時代の土地取引などクリントン氏の一連の疑惑を捜査していた特別検察官は、すでに重大な証拠を握っていた。実習生の告白を、友人のペンタゴン(国防総省)職員がこっそり録音、そのテープを検察官のもとに持ち込んでいたからだ。

 

◆般若のような表情でシラを切る

  

 そうとは知らない大統領は、数日後、ホワイトハウスでの記者会見でも「この女性と性的関係を持ったことは一切ない」と再びシラを切った。般若のようなその時の形相を忘れられない。人はうそをつく時、あのような表情になるのか。良心の呵責、動揺、不安などが入り交じった複雑な心理状態だったのだろう。

 検察官は被疑者の起訴、不起訴を決める連邦大陪審にホワイトハウス関係者を含む証人を次々に喚問、大統領自身も証言を求められ、しぶしぶ事実関係を認めざるをえないところまで追い込まれた。しかし、その後も無反省な態度をとり、議会の調査にも非協力的で、ヒラリー夫人も「事件は右翼の陰謀」とタンカを切ってひんしゅくを買った。

 それやこれやで、クリスマスも近い98年12月19日、ついに下院での弾劾訴追が決まってしまう。訴因は大陪審での一部偽証と、実習生に、2人の関係についてうその証言をするよう示唆した証拠隠滅だった。

 大統領の弾劾訴追は1868年のアンドリュー・ジョンソン大統領(無罪評決)以来約130年ぶり。詳しい記録がなく議会職員は古文書と首っ引き、手さぐりの準備をつづけた。

99年1月7日の開廷日。上院議事整理係の職員が議長席から「Hear ye, hear ye, hear ye」と古めかしい法廷用語で静粛を呼びかけた時は、芝居がかった仕草にびっくりした。議長席に法衣をまとった最高裁長官が裁判長として着席していたのも異様だった。

  弾劾裁判自体は訴追にいたる緊迫したプロセスとは打って変わって、退屈な展開に終始。陪審員である上院議員による評決では予想通り、有罪に必要な3分の2に届かず、長い混乱はあっけなく幕を下ろした。

 

◆国の団結保つための〝無罪〟

 

 あれから20年以上。いくつかの疑問、ナゾが依然として心の中に残っている。思うところもある。

 宣誓供述でクリントン大統領は実習生との関係をなぜ否定したのだろう。そもそも、ともいえる素朴な疑問への回答はいまだに見いだせない。大統領はこの席で、それまで否定してきた他の女性との関係を初めて認める供述をしている。実習生についても認めていれば、不倫相手の数が増えるだけで、スキャンダルに発展することはなかった。回想録で「ふしだら、愚かな行為を恥ずかしくて公にできなかった」と後悔の念を告白しているが、他の女性との関係は「ふしだらで愚か」ではなかったのか。

 明白な証拠にかかわらず、なぜ無罪評決がなされたのか。

 上院院内総務も務めた民主党の長老、ロバート・バード議員(故人)の発言が示唆に富んでいた。「大統領が偽証をしたのは事実だと思う。しかし米国民の団結のために弾劾にはあえて反対する」―。苦渋の決断だが、ひとりバード氏だけでなく他の上院議員、もっといえば米国民の共通した思いだったろう。

  多民族、多様な社会ゆえさまざまな問題を内包する米国が、団結を維持するには大きな困難を伴う。政治色の強い弾劾で大統領を引きずり下ろせば、脆いモザイク国家はたちまち分裂の危機にさらされたろう。

 国民の間に、大統領の行動はそれほど悪いことかという疑問があったことも、大統領が失職を免れた理由のひとつではなかったか。

  偽証は重罪だが、クリントン氏の場合、「不倫隠し」という個人的な動機からだった。再選めざす大統領陣営のスタッフが民主党本部に侵入、ホワイトハウスがもみ消し工作に関わったウォーターゲート事件では当時のニクソン大統領は弾劾訴追が決まった段階で辞職したが、民主主義の根幹を揺るがしたこの事件に比べれば、クリントン疑惑は深刻さでははるかに及ばない。

  当時、いまもそうだが、気になったのは、クリントン氏の罪状が「不倫」それ自体だと信じている人が少なくなかったことだ。

 

◆訴追理由は不倫などではない

 

  騒ぎのさなか、日本の雑誌で高名な作家が「不倫しても国をしっかりリードしていれば合格」などとことさら斜に構えた記事を書いていたのを読み、浅はかな議論に呆れて、コラムで反論を試みた。「不倫という問題は訴因にはない。宣誓供述でうそをついたこと、偽証という重大犯罪が問われているのだ。ことの本質を正しく理解すべきだ」と。

 もっとも、そういう見方は、本家本元の米国でも盛んだったから、日本では無理もなかったが。

 長期にわたったクリントン疑惑の詳細を記憶しているわけではもちろんないし、取材上の苦労、苦心の記憶もおぼろげだ。しかし、忘れられないことがある。次元の低さに失笑を買うことを覚悟で告白する。

  大統領は実習生との「不適切な関係」は認めながらも、〝性的関係〟については自らの〝独自の解釈〟を盾に、そういう関係はなかったと強弁した。具体的にどういう行為があったのか。大統領はどんな解釈をしているのか。思わず顔を赤らめるようなあからさまな用語を用いて記事にするのは、どうしてもはばかられた。

 実習生の着衣に性的接触の痕跡があったとも伝えられたが、どんな痕跡なのか。これまた。紙面ではっきり説明することはやはり躊躇した。「ある種の行為」とか「ある痕跡」などあいまいな表現にとどめ、人生経験豊かな読者諸兄、諸姉のご賢察にゆだねるしかなかった。

 

◆政争に過ぎなかった裁判?

 

  筆をおく前に、クリントン弾劾とトランプ弾劾の接点に触れる。

 トランプ大統領の弁護団に名を連ねた1人は、クリントン疑惑を追及した特別検察官、ケネス・スター氏そのひとだ。私は氏がその職を退いた後、インタビューする機会があったが、氏は「政治的、党派的な捜査」という批判に真っ向から反論した。「私は判事、司法次官などとして常に法を尊重してきた。党派的という批判が出るのは万国共通だ」「大統領が国民に対して正直であろうとしなかったことがこういう結果を招いたのだ」と〝正論〟を展開した。

  そのスター氏が、トランプ弾劾裁判の法廷では一転して、大統領の擁護に熱弁をふるっていた。クリントン氏の肩を持つつもりはさらさらないが、その弾劾裁判は、正義を追及するのではなく、やはり単なる政争に過ぎなかったのではないか―と思えてならない。

 

かしやま・ゆきお氏

1974年産経新聞社入社 水戸支局 社会部などを経て 政治部で中曽根首相番 竹下幹事長番 政治部次長 ワシントン支局長 外信部次長 編集局次長 編集長 論説委員長 常勤監査役など

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