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元名護市長・岸本建男さん/リベラルと基地の狭間で苦悩(阿部 岳)2020年2月

 辺野古新基地建設は、沖縄に息づく無数の人生を翻弄してきた。怒り、嘆き、諦め、それでも前を向く覚悟。人々の思いの曲折に、私は新聞記者として立ち会う機会に恵まれた。

 

 岸本建男さん(1943年~2006年)の陰影は、中でも濃い。基地受け入れ表明で歴史に名を刻んだ地元名護市の元市長は、元来リベラルな人物だった。

 

 早稲田大学の学生時代に故郷沖縄の本土復帰運動に身を投じ、卒業後は世界を放浪した。ゲバラそっくりにひげを伸ばし、ベレー帽をかぶった写真が残っている。最期の地ボリビアを訪ねた際に撮り、晩年まで大事にしていた。

 

 帰郷して名護市役所に入ると、すぐに頭角を現す。86年に就任した保守の比嘉鉄也市長は岸本さんのリベラルな信条を知りつつ、手腕を買って取り立てた。政府が米軍普天間飛行場の移設先に名護市辺野古を選び、基地建設の是非を問う市民投票が実施された97年は助役の職にあった。

 

 投票結果は反対多数。しかし、比嘉市長はこれを覆して受け入れを表明し、責任を取って辞任した。混乱の中、岸本さんは後継者として98年2月の市長選に出馬。下馬評を覆して勝利した。

 

 入社2年目の私は選挙直後、名護市にある支社に赴任し、岸本さんを取材するようになった。とは言っても、役所ではなかなか会えない。夜回りにも応じてくれない。翌年にかけて政府から再び基地受け入れ表明の圧力が強まり、ガードは堅くなるばかりだった。

 

■「私には私の都合がある」

 

 当時、名護市の人口は5万人余り。小さな街のトップに、警護の警察官が常時2人張りつく事態になった。身辺の安全確保はもちろん、動向を探らせる目的が政府にあった。岸本さんが受け入れるのか拒否するのか、最後まで意向をつかめていなかった。

 いよいよ表明が迫ったころ、岸本さんから初めて声がかかった。記者が全国から名護に集まる中、沖縄の地元2紙の2人だけが自宅に呼ばれた。酒を交えた他愛もない話の中、岸本さんがこれだけは伝えたい、という目で言ったこと。「私は国や県のペースにはやられない。私には私の都合がある」

 

■厳しい条件付きで受け入れ表明

 

 基地建設の経済効果を期待する地元経済界に担がれて市長になった以上、受け入れざるを得ないことは岸本さん自身がよく知っていた。ただ、「受け入れ方」にこだわった。99年12月の受け入れ表明では基地使用協定の締結、基地使用を15年に限ることなど、7つの条件を付けた。

 

 結果から見ると、条件はあまりにハードルが高かった。米国にのませられなかった政府は05年、より辺野古集落に近い位置に建設する案を持ち出した。岸本さんは反対に転じたが、体はすでに激務でむしばまれ、市長退任を決めざるを得なかった。

 

 わざと難しい条件を付けて基地を阻止する高等戦術だった、とみる人もいる。私はその場その場で精いっぱいの抵抗をし、首の皮一枚で反対を貫けたのだと思っている。

 

 後継者を当選させ、06年2月、2期8年を全うして退任した。あいさつでは、「大変激しい8年間だった。このような時代を任されたことは私の運命だった」と語った。肝細胞がんで亡くなったのはわずか49日後。62歳の若さだった。

 

(あべ・たかし 沖縄タイムス社編集委員)

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