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映画「惑星ソラリス」出演記 /タルコフスキー監督との1週間(鈴木 康雄)2020年2月

◆モスクワ支局に出演依頼の電話

 

 今から半世紀前の1970年か71年、読売新聞モスクワ支局の電話のベルが鳴った。受話器を取り上げると女性の声がこう話しかけてきた。

 

 「こちらは、映画監督アンドレイ・タルコフスキーの秘書のマーシャです。監督は、ポーランド人のSF作家、スタニスワフ・レムの小説『ソラリス』(邦題『ソラリスの陽のもとに』)をもとに自分で脚本を書き上げ、すでに撮影に入っています。主人公役は、ソ連の有名男優のドナタス・バニオニスです」

 

 「なるほど、それは興味深いですね。映画が完成したら日本でもきっと大評判になると思いますよ」とこちらもエールを送る。ロシアでは、話はなるべく大きくするのが肝要。こちらの気持ちを少々大げさに伝えるのが礼儀だ。

 

 それにしても世界のタルコフスキーが日本の新聞社に何を頼みたいというのだろうか。

 

 「実は、映画の中で外国人研究者が参加する国際会議の場面が何回か出てくるので、日本人を含め、数人の外国人俳優が必要になりました。でもモスクワには欧米、日本など西側の俳優を回してくれるエージェンシーがありません。そこでモスクワ駐在の外国特派員に声をかけてはどうかとなり、手始めにヨミウリに電話してみたのです」

 

 なるほど、筋道は通っている。しかし、西側特派員にとって冷戦真っただ中のモスクワは、注意に注意を重ねても足りない場所だった。業務以外に手を出さないのが常識だ。

 

 こんなことがあった。

 

 ドライブ中に当時4歳になる私の息子が「おしっこ」と言い出した。

 

 田舎道沿いの工場らしき建物のそばに停車し、息子はコンクリート壁に向かって用を足した。すると1分もしないうちにパトカーがサイレンを鳴らしてやってきて、私はスパイ活動現行犯で調べられた。そこは表札のない軍需工場だったのだ。謝罪して勘弁してもらったが、ソ連外務省新聞部やKGBのファイルには、私が息子を使って隠密活動をしていた報告が書き込まれたことだろう。

 

 話はタルコフスキーに戻る。

 

 支局長に話すと、「面白い申し入れじゃないか。どうせ大した仕事ではないだろう。日本のマスコミがタルコフスキーをインタビューしたという話も聞かないので、これはチャンスじゃないかな」ということで、引き受けることになり、支局長が「鈴木君、勉強だと思って君が行ってこいよ」と言ってくれた。

 

 指定された日に、「戦艦ポチョムキン」(エイゼンシュテイン監督)「誓いの休暇」(チュフライ監督)などの名作を生んだ国立モスクワ映画撮影所(モスフィルム)に出かけた。服装は「学者か専門家風でお願いします」と指示されたので、いつもの上下の背広、ワイシャツにエンジのネクタイといういでたちだった。

 

 タルコフスキー監督は1932年4月、ヴォルガ川流域ザブラジェで生まれた。私より7つ年上だが、初めて顔を合わせた時には、私よりも5歳は若いのでは、と感じたほど若々しかった。初めてスタジオに入った時、「これがタルコフスキーだ」と思った貫禄のある人物は、ソ連でも有名なユーソフ主任撮影技師だった。

 

◆ロシア語のセリフを心配

 

 第1日目、午前の撮影が終わった。そこで初めて、監督、スタッフ陣と外国人エキストラたちのお互いの挨拶が行われた。

 

 タルコフスキー監督が「何か質問があれば、遠慮しないで聞いてください」と言う。実は、私には心配事があった。セリフだ。日本語だってセリフを言わされれば、途中でつまずいてしまうだろう、ましてや、カメラが回っているところでロシア語で質問したり答えたりするとなったら…想像するだけで恐ろしい。私のたどたどしいロシア語を理解してくれた監督は「そんな無理なことは注文しないよ」と私の心配を読み取ってか、笑顔でうなずいた。

 

 外国人エキストラの中で日本人は私1人だった。その他は、モスクワ滞在10年以上になる米国人ジャーナリストと若手のドイツ人新聞記者、それに国名はわからないがアフリカ人の記者が1人いた。日本人や黒人も入れておくのは国際マーケットを考慮してのことなのだろう。

 

 昼食は撮影所内の食堂で取ったが、食事の内容、味もよかったが、皿、カップも上品で清潔だった。ここなら、喜んで毎日でも食事に訪れたいと思った。 

 

 午後の撮影が始まる前に監督から再び「何か質問はありませんか」と声がかかった。私は、セリフの件がまだ心配だったので、「ロシア語でのセリフはないと考えていいのですね」と念押しの質問をすると、監督は吹き出しそうになった。「せっかちだねぇ。時々、即興でセリフを注文するからね。その時はよろしく」とみんなを笑わせた。こちらは心配で笑い事ではなかったが。

 

 普通のロシア人からすれば、日本人の顔をした男性や女性がロシア語をしゃべっても驚かないと思う。というのも、顔が日本人によく似たウズベク人、カザフ人が、ロシア人そっくりの発音で見事に発音しているからだ。監督も、外国人に下手なロシア語をしゃべらせてみたいと思う茶目っ気もあるような気がする。

 

 結局、私は「そんなことは果たして可能だろうか」というロシア語のセリフをしゃべることになり、出演時間は1分30秒間だった。ただ残念なことに、カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞した国際版(約2時間半)の「惑星ソラリス」では、私の出番はカットされてしまった。ロシア語版は上下4時間で不肖日本人専門家もロシア語をしゃべっている。

 

 ただ、監督本人が撮影現場で私に演技を指導している写真が、『週刊読売』(87年7月26日号)に掲載されたことがある。この写真は手元にないが、私の出演場面を撮影した写真がみつかったので、このページに掲載した。

セリフのほかに苦労したのが、服装だ。撮影所には5日間通ったが、監督からは、「ネクタイ、ポケットチーフに至るまで、全く同じ服装で来るように」と厳しい指示があった。帰宅後ワイシャツをすぐに洗濯し、暖房機のそばで乾かし、出かける前に妻に点検してもらった。

 

 詳しい数字は忘れたが、1週間のルーブル払いの出演料は円換算でざっと5万円と少しだったように記憶している。私たち特派員俳優の格付けは、「特例として、特別Aのランクということになっているのよ」と監督秘書がウインクしてくれた。

 

◆単独インタビューに成功

 

 最終日に私は、忙しそうな監督に蛮勇を振るってインタビューを申し入れた。すると、「ああ、もちろんだとも! ヨミウリの支局でやろう。車で撮影所に迎えに来てくれるかな」と快諾してもらった。

 

 会見場所に日本の新聞社の支局を選んだのは好奇心だったと思う。日本人の運転はロシア人とどう違うのか? 日本人の話し方、笑い方、お茶の飲み方は? 監督は、初めて見ることに特別な関心を持っていた。

 

 撮影所から読売支局まで、私が乗っていたワーゲンで20分ぐらい。その間、監督は雑談をしながら私のハンドルさばきをじっと見ていた。

 

 ウクライナ・ホテルの近くの交差点まで来て私が信号待ちで車を止めた時、監督はこう言った。「日本人ってせっかちだね」。私がクラッチを入れ、信号が変わったらすぐにブレーキペダルを放して発進できるようにしているのを見ての感想だった。

 

 支局の応接間で行ったインタビューは1時間以上にもなったが、監督は、日本や日露関係のことは話題にしてもあまり乗ってこなかった。「惑星ソラリス」は地球と他の惑星との交流がテーマ。監督の興味は現実政治よりもずっと大きく、広い宇宙にあった、ということだろう。それでもインタビューは、私にとって楽しい、貴重な1時間だった。

 

 インタビュー後、私は再び監督をワーゲンの助手席に乗せ、モスクワの中心街にある「ドム・キノ」(映画の家=映画関係者が集う会館)まで送り届けた。車から降りると監督は手を一度振って、建物のドアの向こうに消えていった。その場面がまだ記憶に残っている。

 

 タルコフスキーが私の車の助手席に座ってくれた。これが私の勲章だ。

 

すずき・やすお

1939年生まれ 東京外国語大学ロシア科卒 64年読売新聞社入社 モスクワ バンコク ワシントンの各特派員 編集委員などを務め 99年退社 自治医科 富山国際両大学の教授を務めた 訳書に『赤い反乱 エリツィンはクーデターを知っていた』『ゴルバチョフ回想録』(共訳)など多数

 

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