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皇室報道、抜きつ抜かれつ悪戦苦闘/昭和天皇から雅子さん婚約まで(塚原 政秀)2019年11月

 天皇陛下が即位を宣言する「即位礼正殿の儀」が10月22日、約29年ぶりに行われた。筆者が宮内記者会の常勤メンバーだったのは、1979(昭和54)年から2年間。その後も共同通信社会部皇室班メンバーやデスクとして89年の昭和天皇崩御や現天皇が皇太子時代のお妃探し報道に深く関わった。常勤はもう40年も前のことになる。「即位の礼」を機に、常勤時代やその後の皇室ウオッチャーとしての〝悪戦苦闘の日々〟を振り返った。

 

◆昭和天皇「腹八分目」発言

 

 まず、常勤時代の話から始める。当時、宮内庁は、「記者会見」をなぜか「お会い」と呼んでいた。宮内庁の見解では、「会見」は、あくまでも天皇が外国の元首と会うことを指していた。記者と会うのに「会見」を使うことはまかりならぬということである。まだ取材に対しての〝皇室の壁〟は厚かった。現在はもちろん、「記者会見」に改められている。

 当時の会見は、那須御用邸などが使われた。〝会見〟は約30分、天皇が散策中に記者とバッタリと出会ったという想定である。私を含め、各社の記者がそれぞれ社名と名前を名乗り、挨拶する。天皇は記者一人一人の前まで進み、丁寧に応対する。 79年の初めてのときは私もかなり緊張していた。初めに、当時、話題となっていた解散総選挙についてある記者が質問すると、昭和天皇は、困った顔もせず、笑いながら「そんなことは皆さんの方が知っているのでは」などと、ユーモアたっぷりにかわされた。記者団は爆笑。会見は一気に和んだ雰囲気に包まれた。翌80年の会見では、健康の秘訣について「腹八分目」とご発言。昭和天皇はまだまだお元気だった。

 私が初めて同行取材した皇太子夫妻(現上皇夫妻)国際親善の旅は、79年10月のことで、社会主義国だったルーマニアとブルガリア。ルーマニアは当時、チャウシェスク大統領が独裁的権力を振るっていた。大統領との会見や晩餐会など公式行事のない夜のことだった。同行記者団は、皇太子夫妻からブカレストの大使館に夕食のお招きを受けた。当初から予定されたものではなく、全く予想外だった。同行記者と随員、大使館でお手伝いをする商社などの現地駐在員が一緒だった。この招待は後に〝平成流〟を貫くご夫妻らしいきめ細かい気配りだったと解釈している。85年のスペイン、アイルランド訪問にも同行取材したが、この時のような機会はなかった。

 

◆徳仁親王とジンギスカンの味

 

 常勤時代、浩宮徳仁親王は、学習院大学文学部史学科に在学中だった。80年2月に成年式を迎え、成年皇族となった。「お妃探し」はまだ大きな話題になっていなかった。山登りがご趣味で、関東の雲取山と北海道の大雪山系登山に同行した。山頂での記者会見が慣行となっていた。後にこの山頂会見は、結婚について(その目安として)「いま何合目ぐらいですか」との記者団の質問につながることになる。徳仁親王と雲取山荘で一緒にみたご来光と、大雪山で現地の人が担いで山の上まで上げたジンギスカンのご相伴の味は一生、忘れない。

 常勤が終わると、自動的に遊軍の皇室班に否応なしに組み込まれた。主な仕事は、代替わりに備えての取材と予定原稿作りだった。本社内の窓のない10人程度が入れる部屋が与えられた。

 共同通信では、Xデーに備えて私が皇室班入りする前から、年表や写真と合わせた「ご生涯」「おことば集」「記者会見録」などの記事が作られていた。それを定期的に手直しする作業や、時代が変わるので天皇制や皇室に関する企画記事も作り始めた。政治部にも皇室班ができ、社会部と合同で代替わり儀式がどうなるのかや、憲法上の問題点などについて、法制局幹部や戦後の皇室制度作りに関わった人々からも取材した。しかし、その口は当然ながら固かった。

 

◆天皇崩御で「9分のスクープ」

 

 この水面下の秩序が破られたのは、1987年9月19日付朝日新聞朝刊の「天皇陛下、腸のご病気、手術の可能性も」のスクープだった。結局、昭和天皇の国体での沖縄訪問は、実現することはなかった。当時、私は、太平洋戦争で唯一地上戦のあった沖縄に天皇が初めて訪問するということで、那覇で前線作りなどにあたっていた。昭和天皇は、87年9月22日に宮内庁病院に入院、手術。1年後の9月19日、吹上御所で吐血、以後重体が続き、国内では自粛ムードが広がった。

 この日以降、共同通信では、地方の支社局の記者も動員、皇居の各門や侍医、東大医師団など、1日30、40人の記者やカメラマンが徹夜でベタ張りする体制をとった。結局、取材は、張り番の弁当や車の手配など兵站の編集庶務も含めた111日に及ぶ総力戦となった。

 そして、89年1月7日未明から侍医らの動きが激しくなり、皇太子はじめ皇族方が続々と皇居に。『共同通信社会部』(共同通信社社会部編)によると、この日午前6時33分、宮内庁記者からの連絡で「危篤状態と判明」の速報、この後、午前7時46分、政治部から「午前6時33分、崩御」の加盟社に向けた重大速報のチャイムが鳴った。宮内庁の発表よりも9分早い特ダネ速報だった。この時、社内にいた私は、全身から力が抜けていくのを感じた。

 1993(平成5)年1月6日夕、総括デスクだった私は、事前に準備していた膨大な予定原稿の手直しをしながら、ジリジリとその瞬間を待っていた。この日、ワシントンポストが「皇太子妃に小和田雅子さん」との報道をし、新聞協会報道小委員会が招集されたからだ。そして、井内康文社会部長から「解除」の声掛けがあり、午後8時45分、申し合わせは解除された。共同通信からは、新聞紙面の7、8㌻分に当たる大量の記事や写真などが加盟社に送信された。協会加盟各社は宮内庁からの強い要請を受けて、92年2月13日、関連報道の自粛申し合わせを締結していた。

 

◆自粛期間の蓄積で勝負決まる 

 

 この日、宮内庁からの発表はなく、各社の報道内容は、自粛期間中の蓄積によって決まった(石井勤著『皇后雅子』)。初めて皇太子が雅子さんと会ったのは、雅子さんが外交官試験に受かったばかりの86(昭和61)年10月、スペイン・エレナ王女の歓迎パーティーだった。その後、共同通信は、高円宮邸で長い時間、皇太子と雅子さんは会っていたという事実を担当記者がつかみ、徹底した周辺取材が行われた。雅子さんの母方の祖父が公害問題を抱えたチッソのトップだったことから、交際は中断。この後、92(平成4)年、皇太子の「強い希望」で交際が復活した。結婚が煮詰まりつつあった同年12月には、翌年1月19日の「皇室会議開催」との決定的な情報も得て、お二人の同級生や恩師の座談会など準備を進めていた。

 現場の頑張りや先輩たちからの重要情報提供もあり、取材はそれなりに先行していた、と思っていた。申し合わせ解除後の読売新聞1月7日付の朝刊紙面には、前年10月3日、千葉県の新浜鴨場での隠密デートと皇太子のプロポーズの記事がでかでかと掲載されていた。

 明仁天皇の2016年の「人権宣言」とも言える「おことば」をきっかけとして、生前退位が実現した。終身在位制の存続は、事実上、困難になったと言える。令和の新皇室が出発するに当たって、皇位継承権者が三人となり、「皇太子」もいない現状をどう考えるか。女性・女系天皇の容認も含めた国民的議論が今こそ必要とされている。また、前例を踏襲したとされる一連の代替わり儀式と憲法との整合性はどうなのか。まだ、議論は尽くされたとはとても言えない。

 

つかはら・まさひで

1945年9月生まれ 学習院大学法学部卒 68年共同通信社入社 警視庁 司法 皇室を担当 ロッキード事件で検察担当 社会部長 名古屋支社長 常務理事 退職後 文教大学情報学部で9年間非常勤講師 NHKインサイダー取引事件第三者委員会委員 現在 第三者委員会報告書格付け委員会委員

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