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私的ロッキード事件/大臣室と被告席の田中角栄(土谷 英夫)2019年9月

 目に焼き付いている田中角栄元首相の後ろ姿がある。裁判所の薄暗い廊下を、秘書や弁護士らを引き連れ、足早に玄関に向かっていた。

 誰ひとり声を発しない。待ち構えるカメラの砲列が、ガラス戸越しに見えた。玄関を出た元首相は、いつものように右手をあげた。

 東京地裁701号法廷で、懲役4年の実刑判決を受けた元首相は、保釈手続きが済むまで、別室に留め置かれた。地裁を出たのは閉廷の2時間後。屈辱だったに違いない。1983年10月12日のことだ。

 

◆グラス片手に政治講談

 

 さかのぼること12年。71年春、新米記者の私は通産省(現・経産省)クラブの末席を汚すことになった。

 多少仕事にも慣れた7月、内閣改造で自民党幹事長から転じた田中が通産大臣でやってきた。着任早々、安普請のオンボロ庁舎の建て替えを即決して、通産官僚をうならせた。

 記者クラブは、オンボロ庁舎2階の端。西日が当たり、手狭だった。大臣の会見や懇談は、同じ階の大臣室に、記者たちがどやどやと移動して会議用の長テーブルを囲んだ。

 汗っかきの田中の前には、必ずおしぼり。夕刻の懇談ではナポレオンのボトルも。スコッチのオールドパーを好んだと聞くが、大臣室では、ブランデーの水割りだった。

 興が乗れば、グラス片手の政界回顧談も聞けた。自由党副幹事長として奔走した「吉田政権最後の日」の一席など、講談師顔負けだった。

 大臣室に続く秘書官室に、色浅黒く寡黙な男がいた。先輩記者が「角さんの金庫番だよ」。田中と共に被告となる榎本敏夫秘書だった。

 ロッキード事件の〝火付け役〟となるロ社のコーチャン社長(後に副会長)も、大臣室の訪問客だった。国産旅客機YS11の後継機「YX」の共同開発相手の候補として。

 結局、ボーイング社に落ち着いたが、ロ社も手を挙げていた。新型機売り込みの一助に、との思惑もあったのだろう。大臣室に入るがっしり体型の米国人を、私も目にしていた。

 後に「あっ、あの時の」となる。

 通産省担当は1年足らずで、72年春に運輸省(現・国交省)クラブに移った私は、さらに事件に近づく。

 着任のあいさつ回りで、佐藤孝行政務次官との初対面は覚えている。

 開口一番「あなた、いい時計してますね」と、海外旅行土産のわがスイス製腕時計を、まじまじと見た。物欲の強い人と見受けた。

 航空3社の業務分野調整で、全日空と東亜国内の民間2社に有利な私案をまとめ、日本航空寄りの運輸省航空局とことごとく対立していた。

 ロ事件で全日空からの受託収賄に問われ、「さもありなん」と思ったが、私の見たところ、佐藤は東亜国内に、もっと近かった。

 田中政権の発足は、72年の七夕。ワイドボディ旅客機の売り込みが激しくなったのもこの頃から。ロッキードL1011と、マクドネル・ダグラスDC10が、同時期にデモフライトで飛来し、私も試乗した。

 機種選定の取材はあまりしなかった。言い訳めくが、当時の航空界は「空の安全」が最優先課題だった。

 前年、東亜国内の「ばんだい号」が函館近郊で墜落、岩手県雫石上空で全日空機と自衛隊機が空中衝突と大惨事が続いた。この年も日航機がニューデリーとモスクワで墜落し、事故対応に振り回された。

 田中訪中で、日中国交回復が実現し、日中航空協定の取材もヒートした。国際定期便は日航が独占していた。全日空は日中路線参入を国際線進出の足がかりにしようと、若狭得治社長(後に会長、被告)を先頭に政官界へ猛烈に働きかけていた。

 そんな中、国内幹線用に日航がボーイング747SRを、全日空がL1011を選んで、発表した。

 国際線でジャンボ(747)を使う日航が、その短距離型(SR)を導入したのは自然だ。全日空の選択も違和感はなかった。夜間の飛行差し止め訴訟が起きるなど、大阪空港の騒音問題が深刻で、低騒音性能が決め手になったと思っていた。

 航空局が747SRで機種統一をはかろうとしたが手を引いた、との風聞を耳にしたが、戦後最大の疑獄に発展するとは露知らず、私は1年で運輸省担当を卒業した。

 

◆メイクマネー危惧した盟友

 

 その日、大蔵省(現・財務省)担当だった私は夏休みをとり、早朝から江ノ島の近くで船遊びに興じていた。昼食時に陸に上がり、軽食堂のテレビで「田中逮捕」を知り、仰天した。76年7月27日だった。

 元首相が、まだ東京拘置所にいた時期だったと思う。瀬田の私邸に夜回りすると、大平正芳蔵相が「僕らは政治資金をリシーブして、それを遣うのだが、田中さんはメイクマネーするからなあ」と嘆息した。

 2人は盟友で、大平から田中のことをよく聞かされた。両人で、すき焼きをすると、甘党の大平が砂糖を加え、辛党の田中が醤油を足すので、どんどん味が濃くなる、とか。

 親分の池田勇人の総裁選出馬で、田中に助言を求めると、なすべきことや手順を事細かく万年筆でしたため、特に大事な箇所は赤インクで記したマニュアルを作ってくれ、その通りにした、という話などなど。

 その盟友も、田中の資金源には危うさを覚えていたようだ。

 因縁なのだろう。ロッキード事件と〝ニアミス〟を重ねた私が、正面から向かい合うことになる。経済部から社会部に異動し、80年に司法記者クラブ担当になった。

 丸紅、全日空、児玉・小佐野の3ルートの審理が東京地裁で併走し、途中参加の私は、膨大な公判記録と格闘し追いつくのに必死だった。

 それでも、被告席に証人席に、取材で知った顔が次々に登場する公判の傍聴は、得難い体験だった。

 被告席の田中は、いつも紺のスーツで姿勢を正し、暑い日でも上着を脱がなかった。宰相を務めた者の矜持なのだろう。判決の日の後ろ姿が、私が田中を見た最後になった。

 

◆「米国の陰謀」という幻

 

 不思議なのは「田中は米国にはめられた」という陰謀説が、いまだに語られることだ。代表が、首相時代の積極的な資源外交が「虎の尾」を踏み、報復されたという説。私には「とんでも説」に思える。

 首相在任中に「石油危機」に遭遇した田中が、新たな供給先を求めて資源外交を率先したのは事実だ。

 だが、疑獄の端緒、チャーチ委員会(米上院外交委多国籍企業小委)公聴会でのコーチャン証言は76年2月。田中が首相を辞めた14カ月後だ。

 日本以外に10を超す米国の同盟国の名も出た。西独のシュトラウス元国防相、イタリアのレオーネ大統領、オランダ女王の夫君ベルンハルト殿下らの疑惑が浮かび、殿下は公職を退き、伊大統領も辞任した。

 米国はといえば、ウォーターゲート事件と、ベトナム戦争の後始末に苦闘していた。フォード大統領は、辞任したニクソンへの恩赦がたたり再選が危ぶまれた。75年4月にはサイゴン(現ホーチミン)が陥落し、米国の威信は地に落ちた。

 田中の資源外交が気に食わなかったとしても、内憂外患で手一杯の米国が、他の同盟国も巻き込み傷つけてまで、すでに首相を退いている田中を陥れようとするだろうか。CIAも、そんな謀略を企てるほどヒマだったとは思えない。

 検証すべきことは他にある。ロ社から最も多額のカネが流れた児玉誉士夫が重要な役割を果たしたであろう対潜哨戒機P3Cがらみの工作の実態は、ベールに包まれたままだ。

 

つちや・ひでお

1948年生まれ 71年日本経済新聞社に入社 経済部 社会部 経済解説部を経て 編集委員 論説副主幹 コラムニストを歴任 コラム「春秋」「中外時評」「核心」などを担当 著書に『1971年 市場化とネット化の紀元』など

 

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