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ロッキード事件を最前線で取材/中坊さんに全盛期から晩年まで密着(高尾 義彦)2019年6月

 「主任検事」。ロッキード事件が明るみに出て東京地検特捜部が捜査に乗り出した1976年2月、社会部司法キャップだった山本祐司さん(後に社会部長、2017年死去)から、この〝肩書〟を宣告された。

 当時30歳で毎日新聞の司法記者クラブ員の中で最年少、検察担当になって1年ほどだった。ほぼ1年にわたる捜査の過程で、事件の展開ごとに一面トップの原稿を任され、この貴重な経験によって記者として育てられた思いが強い。捜査の「主任検事」は吉永祐介特捜部副部長(後に検事総長)で、吉永さんとは終生、親交を重ねた。

 ロッキード報道に勢いがついたのは、3月4日夕刊一面トップ「児玉、臨床尋問へ」だった。原稿は自分が書いたが、主治医をマークした遊軍記者の情報がスクープに結びついた。米上院多国籍企業小委で秘密代理人として最初に名前が出た児玉誉士夫氏は病床にあり、取り調べも難しい状態だった。記者クラブに夕刊が配られると、他社の記者から「プロレスの記事みたいな大きな見出し」と声が上がった。

 

◆田中元首相の出頭写真を撮影

 

 田中角栄元首相が5億円の外為法違反容疑で逮捕された7月27日当日の朝刊では、「検察、重大決意へ」と事件の急展開を予告する原稿が一面トップに。この朝、早出の当番だったため千鳥ヶ淵にあったフェヤーモントホテルで目覚め、午前6時過ぎには霞が関の検察合同庁舎へ向かった。

 5階の副部長室の前まで行くと、前夜、「病院に寄ってから出勤」と夜回りの記者を煙にまいた吉永さんが出先の検事に電話で指示する声が聞こえる。本社に連絡を、と1階に下りると、午前7時前なのに、検事正が緊張した面持ちで通用口から登庁してきた。写真部の手配が間に合わないかもしれないと、記者クラブからカメラを持ち出し、正面玄関に戻って間もなく、黒塗りの車から元首相が降りてきた。

 ストロボもないカメラで3、4回シャッターを押した。フィルムを本社に届け、現像の結果が出るまでの不安な気持ちは43年経ったいまも忘れない。出頭写真は号外などの紙面を飾り、生涯で最も印象深い一枚となった。

 

◆誤報覚悟で灰色高官聴取を報道

 

 起伏に富んだ報道の細部は社会部が上梓した『毎日新聞ロッキード取材全行動』(講談社)に詳しいが、灰色高官聴取では、誤報に手を染めた。捜査が山場を越えた8月25日、夜回りを一部割愛し、遅れて副部長宅に着いたら、吉永さんは自宅に入った後で、他社の記者から「次席検事のところで灰色高官事情聴取の話が出たよ」と耳打ちされた。灰色とはロッキード資金を受領したが職務権限や時効の関係で刑事訴追されなかった国会議員たち。

 あわてて公衆電話から「勧進帳」で原稿を送った後、吉永さん宅の玄関をたたくと、応接間に上げてくれた。しかし、「聴取はしてない」と全否定。電話を借りて次席に確認しても、むにゃむにゃ。締め切りぎりぎりに社会部に電話して、「誤報になりますが、NHKはじめ全体の流れが止められないので、朝刊はそのままに」。自民党の抗議などを受けて、検察当局が聴取を否定したのは翌日の夕方だった。

 翌年1月に裁判が始まると、米国で実施された嘱託尋問調書の内容が取材の課題となった。調書は非公開を前提に弁護側に開示され、16人の被告のうち小佐野賢治国際興業社主は八重洲の本社に専用の小部屋を設けて訴訟書類を管理していた。足しげく通ううち、調書を手渡されたが、小佐野社主は目の前に座って席を離れず、メモはとれない。ポイントを懸命に記憶して、帰りの車の中で調書の言葉を再現し、原稿にまとめた。1時間以上も監視していた社主の、力のこもった強い眼差しが忘れられない。

 5年余の司法記者クラブ在籍後、遊軍記者、司法キャップなど年齢を重ねつつ、正月には必ず、吉永さん宅に挨拶回りを続けた。元首相逮捕の朝、新宿・稲荷鬼王神社に参拝してお賽銭をはずんだ話など裏話を聞くことが楽しみだった。晩年は訪れる検察関係者の姿もなく、典子夫人と3人でお節をいただき日本酒を酌み交わした。

 司法記者クラブを離れた後の正月のもう一つの定番は、元旦の田中邸取材だった。元首相が亡くなった94年の翌年まで14年間、元日は、目白の寒空と銀杏の並木とともにあった。被告ながら闇将軍として力をふるう存在のもとを訪れる政財官や就職などで個人的に世話になった人たちの顔ぶれを門前で確認する。誰に指示されたわけでもなく、社会部記者の美学、あるいは意地のような気持ちだった。

 一審有罪判決後の83年総選挙。選挙戦中、1カ月間、長岡市に滞在し越山会と元首相を追った。結果は史上最高の得票を記録。祝い酒でべたべたする祝賀会場の床を踏みながら、いまに続く「角さん待望論」を噛みしめた。

 

◆中坊さんの半生記を出版

 

 司法記者人生は、「戦後最大の疑獄」のフォローで終りのはずだったが、中坊公平さんとの縁が出来て、趣を異にするもう一つの世界が広がった。森永ヒ素ミルク中毒事件の被害者弁護団長などとして名前は知っていたが、日弁連会長当時に知り合うまで、司法記者としての接点はなかった。

 中坊さんは会長就任後、メディア各社の論説委員などとほぼ毎月1回、懇談の場を設けて、京都弁でその時々のテーマを熱っぽく語った。毎日新聞では、社会部先輩の澁澤重和論説委員(当時)がそのメンバーで、91年秋に中坊さんに引き合わされた。

 当時、社会部デスクで、用件は法曹生活の仕上げに「自分史」出版を手伝ってほしい、ということだった。いわばゴーストライターで、「自分史」は毎日新聞出版局から発行する方向で準備に入った。随時、会長室に出向き、弁護士の父親のもとに生まれ、旅館「聖護院御殿荘」を経営する家庭で育った少年時代から京都大学卒業後、弁護士の道を選んだ半生を取材した。

 ところがこの話に地元大阪の弁護士仲間が「自慢話のような本を出版したら評判が悪くなる」と反発、客観的な視点による構成に変更した。周辺関係者から取材を進めて出版したのが『強きをくじき 司法改革への道』(92年)で、タイトルに中坊さんの名前は入れなかった。

 中坊さんは自分の法曹人生は日弁連会長が頂点、との思いだったようだが、その名が多くの人に知られる活躍の場が待っていた。香川県・豊島の産業廃棄物撤去運動を進める住民会議の弁護団長を引き受け、96年には旧住専の債権回収を担う住宅金融債権管理機構の社長に就任した。「夕陽は西の山に隠れる時、ひときわ大きく輝く」と表現した時期だった。さらに司法制度改革審議会で裁判員裁判や司法試験合格者増の改革案をリードした。

 その頃は地方部長、編集局次長で、中坊さんの活動を追う仕事は、合間の時間をやりくりした。午前3時に朝刊番を終え、早朝の飛行機で函館に飛び最終便で帰京した日もあった。週1回の朝刊連載「中坊公平さんの公正と透明」(97~98年)、「サンデー毎日」連載「中坊公平 最後の仕事」(99年)をもとに2冊の単行本が出来上がり、岩波ブックレットの聞き書き『住専を忘れるな』(97年)も刊行された。

 中坊さんは、不適切な債権回収の責任をとって弁護士バッジを返上、最晩年は社会的活動を控え、週3回の透析の日々だった。正月など節目には京都の自宅を訪れ、寂しげな表情も見たが、評価は変わらない。今年6月半ばに「御殿荘」で予定されている七回忌の集まりに顔を出す。

 田中元首相に対してはおおむね批判的な原稿を書いてきたが、最近の「田中人気」の風潮と重ね合わせ、安倍政権下の政治家たちへの失望感を禁じ得ない。その一方で中坊さんにはエールを送る原稿を書いてきた。明暗二つの色合いを感じながら、司法記者生活を振り返ってみた。

 

たかお・よしひこ

1945年徳島県生まれ 69年毎日新聞入社 東京本社代表室長 常勤監査役などを歴任 著書は『陽気なピエロたち―田中角栄幻想の現場検証』『中坊公平の 追いつめる』『中坊公平の 修羅に入る』など 俳句・雑文集『無償の愛をつぶやくⅠ、Ⅱ』を自費出版

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