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ピンポン外交回想 /「中国、米チーム招待」をスクープ(中島 宏)2019年3月

 米中関係がこのところ何かと緊張しているが、現在の両国関係が始まる中国のピンポン外交について、少し古い話で恐縮ながら私の体験を回想してみたい。

 朝鮮戦争以来、20余年もの間、米国の対中包囲網が敷かれ、両国民の往来はほとんどゼロに近かった。その中で、ベトナム戦争のただ中であるにもかかわらず、予想外にも米国非難を強くする中国が窓を少し開き、米チームを中国へ招待して、世界を驚かせたのがピンポン外交だった。

 1971年3月28日から4月7日まで名古屋市で開催された世界卓球選手権に卓球強国の中国が、文化大革命開始以来、初めてチームを派遣するというので、私のいた共同通信(以下共同)をはじめ各社とも大型取材団を名古屋に派遣した。私の場合は少し特異だった。1969年の香港駐在の後、70年に北京駐在になったが、共同と中国側とのトラブルにより北京支局閉鎖の処分を受け、5カ月ほどで帰国していた。

 ところが71年初めに北京に行った政治部記者から、名古屋大会には中国側が、大型の代表団と記者団を送り込んで来るとの情報が寄せられた。共同は支局復活の努力をしており、この機会に共同について中国にもっとPRしてはどうか、ということになり、私が名古屋に派遣された。日々の取材には縛られなかったので、中国側の卓球関係責任者の宋中秘書長らといつも接触があった。

 

◆「中美人民友誼の為に」メモ目撃

 

 大会最終日の4月7日午前、中国が開催したパーティーに行くと、宋中氏の姿が見えたので挨拶しようと近寄ると、ちょうど旧知の江培柱秘書が走り寄り、「重要電話」と言いながら、彼に何かメモを手渡していた。ちらりと見ると毛筆で「中美(美は米国の意)人民友誼の為に」とあった。宋中氏は一読するとポケットに入れて外に出て行った。後で聞くとこれこそが本国政府からの米チーム招待の指示だった。そんなことは当時とても想像もできなかった。

 その少し前に中国で人気ナンバーワンだった荘則棟選手が、米国のヒッピー選手と友好交流し米中間の大きなニュースとなっていた。当時私は荘選手の行動はやり過ぎと感じ、中国内から強く叱責されるのでは、と予測していた。メモは荘選手の件を人民友好のため、大きく批判はしないということかと、勝手に想像し見過ごしてしまった。

 次いで大会会場に行くと、この年の前年まで北京に住み、民間大使といわれた西園寺公一氏と秘書の南村志郎氏がいて、昼食を共にすることになった。西園寺氏が、出掛ける前に日本卓球協会会長で大会の総責任者の後藤二氏に挨拶したいと言って、会場の中央にいた後藤氏のもとに人をかき分けて入っていく。私もついて行くと、ちょうど後藤氏は、アメリカのハリソン副団長と話をしていた。ハリソン氏が「スンチュン、スンチュン」と大声を上げているが、中国語の原音のため通訳担当者が困惑している様子。私がとっさに「宋中のことだよ」と言うと、話が通じて「彼(宋中氏)が先ほどやって来て米チームを中国に招待した」と訳した。

 すると後藤氏は座ったままいきなり両手を前に突き出し「帰国したらこれだよ」と手錠をかけられるマネをし、「プリズンに入れられるだろう」と訳出された。実際には大会直前、ニクソン米大統領が長年にわたる米国民の対中旅行制限の撤廃をしていたので、すでに問題にはならなかった。

 しかし私はハリソン氏の話に呆然となった。実は名古屋大会の前に密かに奇妙な予測をしていた。私は香港時代にはニクソンの執拗なまでの対中接近ぶりを見ており、その後の北京では、天安門前での毛沢東の反米大集会など、米国のベトナム戦争に対する中国の厳しい姿勢を目の当たりにしていた。その体験から、ニクソンが大会を利用して何か対中接近を試みるが中国側が拒否する、その後、彼が何か〝和平の工作〟をするかもしれないと思っていた。

 そこでハリソン氏の話は「米国の工作か」と思うが、何か少し様子が違う。またすっかり忘れていた午前のメモの件も頭に浮かんだ。宋中氏に聞かねばどうにもならない。 

 ハリソン氏は素早く立ち去り、私は通訳に再度先の会話を確かめた。後藤氏の周辺で、誰も驚いた様子は見られない。一緒に昼食に行くことにになった共同社会部の記者にも話したが、彼も黙ってうつむいただけ。

 西園寺氏も何もなかったかのように食事のため外に出ようとするので、追いついて先の件を聞くと「僕が君なら中国に聞きにいく」の一言。後で聞くと、西園寺氏らは前日にその話が出たので情勢を検討したが「北京が招待するはずがない」との結論になったという。「何かの間違いか」とも感じていたのだろう。

 

◆密かにホテルで確認

 

 警察の警戒線が厳しく、中国代表団の宿舎のホテルまで障害があったが何とかたどり着いた。1階から彼らの部屋の内線にこっそり電話すると、上がってくるようにとの返事。周辺に人が多いので騒ぎになっては大変と、とっさの判断で裏の非常階段を上がり彼らの部屋に入り込んだ。宋中氏の代理、金恕秘書と周斌通訳が迎えてくれた。米チーム招待の話を持ち出すと、あるいは否定するかもしれないとも思っていたが、あっさり認めたので驚く。夕刊用なので、時間がない。一つだけ、その2月に南ベトナム・米軍がラオス侵攻作戦を行い、中国も激しい対米非難をしていた件で、そうした事態なのになぜこの措置を取ったのかと聞いた。

 金恕氏は「米国人民との友好のため」であり、ニクソン政権の戦争政策にはあくまで反対するとして、中国外交について説明した。それだけ聞くと部屋を飛び出し、その後中日新聞社内にある共同の名古屋支社に向かった。会場の記者席では、近くの席に米国の通信社がおり、共同がもたついていると抜かれてしまうことを危惧したためだ。

 名古屋大会報道の全体を統括する部長デスクがフラッシュを出してくれ、私は一報を書いた。中日新聞は夕刊一面トップで報じ、他に3紙の一面にフラッシュのみが入った。テレビの速報、さらに世界の反応がすさまじく、特に米中間のニュースを日本にスクープされた米通信社の追いかけが激しかった。

 

◆「ピンポン外交」と初めて表記

 

 続いて私が書いた解説で「ピンポン外交」と表現、見出しにまでなった。その後一般化するこの言葉が私の記事がきっかけかどうかは分からないが、中国の新外交の後、一番初めに使ったのは確かだ。

 この後、私はなるべく目立たないようにして活動を控えていた。これが毛沢東の指示であることは確信していたものの、内部に反米派がかなり強いことが予想され、その報復で共同の支局復活に何か悪い影響を与えはしないかと恐れたためだ。幸いにも私の杞憂に終わった。

 ピンポン外交は、毛沢東が大会最終日の早暁、タイムアップぎりぎりに決断したものだった。しかも「人民外交レベル」と称していたが、実は米中政府間では既にパキスタンなど第三国を通じ、米中接近の極秘の交渉が始まっており、3カ月前の71年1月には中国側が「ニクソン訪中も歓迎」と答えていた。両国の極秘の交渉をいわばカムフラージュする形になったのだった。

 世界はベトナム戦争ただ中で、文革中の中国が米帝国主義と非難する米国と〝人民外交〟の上に、政府間でも接近するとは予想できなかった。そのため、3カ月後の7月に、ニクソンがキッシンジャー大統領補佐官の秘密訪中と自身の翌年訪中の予定を突然発表すると、世界は2度目の驚きに見舞われた。「ニクソン・ショック」である。

 とはいえ〝人民外交〟は確かに成果を上げ、訪中米チームの動向を伝えるテレビ報道が米国内の親中感情を生み出し、米中の狭間にある日本でも、友好ムードが生まれ、その後の日中国交回復につながった。

 こうして空白だった米中両大国の関係がつながり、まさに国際政治の大転換となった。

 

なかじま・ひろし

1934年生まれ 東京外国語大学卒 1958年共同通信社入社 香港 北京各支局長 長野支局長 編集委員室次長兼論説委員 札幌支社長 KK共同国際資料室長兼翻訳センター長などを務めた

 

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