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ノーリツ創業者・太田敏郎さん/「方言解禁」で生きる勇気湧く(面出 輝幸)2018年11月

 もう一つの言論統制、と言えるのかもしれない。戦時下、弾圧の対象は、思想や信条だけでなく、方言にまで及んでいたという。

 

 兵庫ゆかりの経済人から創業時の話や経営哲学を聞く連載企画の取材で、住宅設備機器メーカー・ノーリツ(神戸市)の創業者、太田敏郎氏にお会いしたのは、四半世紀も前のことだ。このとき耳にした方言と戦争にまつわる逸話は今でも印象深く、地方創生が叫ばれる現代、新たな光を放ちながら尊厳ある地方のあり様を問いかけているようでならない。

 

 太田氏は戦後の復興期、懸命に働く人々の姿に将来の経済発展を予感。「風呂好きの日本人だ。生活が豊かになれば、家庭にお湯を求める時代が来る」と信じ、1951年、前身の能率風呂工業を設立する。予感は的中し、国内初のアルミ製ガス風呂釜の開発や全国代理店網を築くなどの積極経営で、国内屈指のメーカーに育てた。

 

 柔和な外見とは裏腹な粘り腰経営で知られる太田氏だが、敗戦の空虚感の中で、立ち直る勇気を得たきっかけの一つとして、方言と戦争にまつわる話が登場する。

 

 ■教室から消された古里言葉

 

 その〝事件〟が起きたのは、1943年、太田氏が広島県・江田島の海軍兵学校に入校した当日のことだった。式を終えて教室に入ると、上級生がおり、新入生の自己紹介が始まった。教壇に並んで順に出身地や名前を告げる。ある若者の前で流れが止まった。

 

 「やり直しだ!」「もう一度!」

 

 何度、声を張り上げても、繰り返しを求める上級生の怒声はやまない。揚げ句に拳が飛び、若者は壁に打ちつけられた。

 

 「彼の名前は、ひろし、ですが、『し』の発音がなまりで何度やっても『す』と聞こえてしまう。上級生はそれが気に食わなかったんでしょう。えらいところに来たもんや、と体が震えました」

 

 太田氏によると、入校生が全国にまたがる兵学校では、速やかな指示命令の伝達という名目のもと、方言を徹底的に排除した。

 

 この日以来、地方言葉で話す新入生はいなくなった。兵庫県姫路市出身の太田氏も当地周辺の播州弁だったが、封印。標準語的で簡潔な海軍言葉に変えていった。

 

 やがて、終戦。太田氏は失意の中、江田島から古里に戻った。幼なじみらが自宅に集まってきた。

 

 「われ(あなた)、よう生きとったのう」。帰郷を喜ぶ友人らの播州弁が部屋に飛び交う。何か大きなものから解き放たれる気がした。

 

 「…な、なにゆうとんどい! おんどらもじゃ(何を言うか。あなたたちこそ)」。封じ込めていた播州弁が思わず口を突いた。

 

 「死ぬものと覚悟していましたが、古里の言葉を口にして初めて、戦争の終わりと、生きて帰ってきた自分を実感することができたんです」と太田氏。言葉の封印が解かれたことで、再び生き直す勇気が湧いてきたという。

 

 「方言」が「地方」という言葉に置き換えられるならば、戦後においてもなお、地方が持つ潜在的な力や可能性をなおざりにする空気のようなものが、社会の底流に潜んではいなかったか。生きる勇気をも抱かせた「方言」の力。その力と多様性の素晴らしさを社会全体で再認識し、活性化のエネルギーにしていくことが地方創生の原点であるような気がする。

 

(おもで・てるゆき 神戸新聞社取締役)

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