ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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エイズの時代を生きる ボストンで出会った人たち(宮田 一雄)2018年9月

 初夏の日差しがまぶしい日曜の朝、ボストンコモン公園には2万人を超える参加者が集まっていた。エイズ対策の資金を集めるために米東海岸のボストン市内を10㌔歩く。公園はその行進の出発地点だった。

 

 参加者は友人や知人にスポンサーになってもらい、1㌔歩くごとに1ドル、2ドルと出資金を募る。そして歩いた㌔数に応じ主催団体のエイズ・アクション・コミッティ(AAC)に寄付する。

 

 1989年6月、その会場の片隅にあるメディア担当デスクを訪ね、「日本の新聞記者だけど、AACで何かボランティアをしたい」と受付の男性に声をかける。「じゃあ、月曜にオフィスへ来てください」と担当の男性は案外、快く応じてくれた。

 

 米国で最初のエイズ症例が報告された1981年から8年が過ぎていた。病原ウイルスのHIV(ヒト免疫不全ウイルス)に感染する人の数は増え続け、大半は10年以内に死亡する。そんな時期だ。極めて致死率の高い新興感染症の流行に世界は大きく動揺していた。

 

 日本では4年ほど遅れて国内症例が報告され、さらに少し遅れて87年にエイズパニックと呼ばれる混乱が起きた。その時点での国内のエイズ患者報告数は26件。当時の米国の1000分の1にも満たない。アメリカの人たちはいったいどうやって暮らしているのか。社会部で取材を続けながら徐々にそんな疑問が膨らむ。

 

 89年から1年半、社費で米国に留学する機会を得て、エイズとの闘いの現場に直接、身を置きたいと希望したのもそのためだ。

 

 ボストンのAACは全米第3の規模を持つエイズNGOだった。ただし、直接のつてがあるわけではないので、「何かやりたい」と飛び込みでお願いした。今思えば無謀だったかもしれない。

 

 ◆まずはディナーで始まった

 

 月曜日にオフィスを訪れると、担当の男性は「今日で辞めるので」といって、かわりに代表秘書のジム・ボルツ氏を紹介してくれた。

 

 HIV陽性のクライアントと1対1で話し相手になったり、買い物の手伝いをしたりするボランティアを「バディ」という。ジムにはバディになりたいと伝えたが、「登録が必要なので」と色よい返事は得られなかった。英語もおぼつかない日本の新聞記者では守秘義務やコミュニケーション能力からして無理だと判断したのだろう。

 

 「それはそうと」とジムは付け加えた。「今日はディナーだけど来るかい」。AACはHIV陽性者の社会的孤立を防ぐために毎週月曜夜にディナーを開いていた。料理はボストンの有名レストランが無料で提供するという。断る理由はない。個人的には決死の覚悟だったボストン留学は、毎週月曜夜に飛び切りの食事をごちそうになることから始まった。

 

 クリストファーとマイクから「日本の新聞記者だって」と声をかけられたのは3回目のディナーだった。クリストファーはすでにエイズを発症していた。有名な音楽学校の留学生担当で、日本人学生もかなりお世話になっているという。マイクはカナダ航空の客室係で、クリストファーのバディだった。

 

 「バディを希望したけど認められそうになくて」と私が言うと、2人は「じゃあ、俺たちとやれば」と誘ってくれた。以後日本に帰る90年10月までクリストファーの非公式バディとしてマイクを補佐し、一緒に買い物に行ったり、2人をアパートに誘って私の家族(妻と中学1年の娘)とともに食事をしたりした。

 

 クリストファーは次第に衰弱し90年秋にはホスピスに入った。帰国直前に家族で見舞いに行くと、「みんなと別れるのは悲しいか」と逆に慰めてくれる。彼が亡くなったことをマイクから知らされたのは、私たちが日本に戻って2週間後だった。

 

 ◆支援センターでボランティア

 

 話が前後するが、1989年秋にはAACの向かいのYWCAビルに、ボストンリビングセンターが開設された。ジムの紹介でリズ・ジャクソン事務局長に会い、「ボランティアスタッフになりたい」と恐る恐る切り出す。てっきり断られると思っていたら「ファービュラス、いつでも来なさい」と逆にこちらがうろたえるような歓迎ぶり。スタッフとして毎日通うことになった。

 

 リビングセンターは、HIV陽性者やその家族、友人らがくつろいで過ごせる空間で、広い居間と会議室、集会室、台所などがあった。HIV感染が分かって仕事を失い、引きこもってしまう人たちが社会的な孤立を脱し、安心して立ち寄れる場所を作る。それが設立の趣旨だった。エイズで亡くなった人を偲ぶメモリアルキルトの展示で集まった寄付を開設資金に充て、亡くなった人への思いが、同じ病気と闘う人たちの生活支援に活用されていた。

 

 まだ有効な治療法もなく、流行の闇が最も深い時期だった。だが、このセンターはリビングの名称が示すように「死の病」のイメージを覆し、生きることに活動の焦点を当てた。地元の政治家が「エイズ患者はいずれ死ぬのだから」と演説し、「いずれ死なない人間がどこにいる」とAACのクライアントの怒りが爆発する。そんな時期でもあった。

 

 リビングセンターの利用者は成人のゲイ男性が多かったが、クリスマスやイースターには地元のボストン小児病院から、HIVに感染した子どもたちを招待した。イースターのパーティーでは殻に絵を描いた卵(イースターエッグ)を室内に隠し、子どもたちが探す。その卵の準備では、絵心などないので知っている漢字を片っ端から殻に書いた。これなら量産でき、評判も良かったので、思わぬところで漢字に助けられた。

 

 夏にはビルの2階の体育館で『インナーウェブ』というミュージカルの公演を1カ月行った。HIV陽性者にはショービジネスやファッション分野の専門家も多い。そうした人たちが台本を書き、演出、作曲、衣装や舞台設定、そして出演も引き受ける。お前も何か手伝えと言われ、受付係と幕間の飲み物販売係を担当したら打ち上げのパーティーでなんと表彰された。

 

 ◆エイズ流行、伝え続ける使命

 

 テレビの討論番組でエイズがテーマになると視聴者参加枠で動員され、テレビ局のスタジオを訪れる。日本人男性の姿は珍しく、リビングセンターに戻ると「何回もアップで映っていたぞ」と冷やかされた。

 

 振り返ると楽しい思い出ばかりだが、現実には一緒に過ごした人の多くが次々に衰弱し、亡くなっていた。困難な流行に立ち向かう切迫感がどこかに明るい切なさともいうべき雰囲気を生み出していたように思う。

 

 ベトナム戦争の従軍経験があるマイクはディナーの席で「いまこの部屋にいる若者たちが死んでいく。死者の数は戦場より多い」と私にしか聞こえない声で語った。

 

 新聞記者がボランティアと称して取材をすることには、守秘義務と善意の打算的利用(悪用)という2つの倫理課題が指摘される。このため、自分が日本の新聞記者で取材が目的であることは、相手に必ず伝えていた。それでも快く応じる人の方が多く、「地元のメディアは困るが、日本なら構わない」という人もいた。

 

 私の帰国後、1、2年のうちにその大半の人が亡くなっている。エイズの流行という世界史的現象を伝え続けることは、その時の小さな約束だったのではないか。約30年後のいまもそんな思いは消えていない。

 

みやた・かずお

1973年産経新聞社入社 外信部 ニューヨーク支局長 社会部企画担当部長 編集長 論説委員 特別記者など 現在 特定非営利活動法人エイズ&ソサエティ研究会議事務局長 公益財団法人エイズ予防財団理事 著書に『世界はエイズとどう闘ってきたのかー危機の20年を歩く』など

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