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日米半導体協定に秘密書簡 「摩擦記者」の知恵は喧嘩両成敗(高成田 享)2018年8月

 米トランプ政権が仕掛けた中国との「貿易戦争」をみていると、1980年代後半の日米経済摩擦を思い出す。30年前のことに既視感を抱くのは、87年から90年まで、経済担当記者としてワシントンに駐在していたからだ。各社の経済記者も含めて、出稿する記事のほとんどは日米経済摩擦に関するもので、私たちは「摩擦記者」と自嘲していた。

 

 日本では「バブル景気」で、株価や地価の上昇に浮かれる企業が多かったこの時期、米国の政府や企業は経済覇権が日本に移ることを真剣に恐れていた。その表れが「ジャパンバッシング」と、のちに言われる日本を標的にしたさまざまな経済制裁や貿易制限措置だった。

 

 私が米国に赴任して間もない87年4月には、日本が日米半導体協定に違反したとして、米国は日本の家電製品などに報復関税を発動した。

 

 戦後、ずっと日本を庇護してきたはずの米国が日本に罰を下したのだから、日本の国民は驚いたと思うし、そうなると、「悪いのはアメリカ」(文芸春秋87年6月号のタイトル)といった反米感情が高まるのも自然の成り行きだった。

 

 私が米国駐在の記者として心掛けようと思ったのは、できるだけ米国の言い分を正確に伝えることだった。日本の役所を通じて流される米国の主張は、競争力で負けた腹いせに身勝手な主張をしている、といったものが多かったからだ。おかげで、日本の同僚からは、「CIAの手先」などと非難され、私と東京との摩擦が激しくなったこともあった。そんな私も、日本は経済力で米国に勝ったという思い込みから自由だったわけではない。

 

 あるとき、米通商代表部(USTR)の高官と私的な席で懇談しているときに、米国製の新車を買ったと、高官が自慢げに語ったので、軽口のつもりで「交差点で急にエンコしませんか」と言って、場が凍り付いたことがあった。言っていいことと悪いことがあるのに、私が抱いていた米国観というかホンネが思わず口に出たのだ。

 

 ◆日米が市場シェアで密約

 

 日本の見方から抜けきれていない、と反省するもうひとつの出来事があった。それは、米国人の助手が大学関係者から手に入れてきた〝特ダネ〟だった。米商務省を退官したばかりのクライド・プレストウィッツ氏が執筆中の本(のちに『日米逆転』として日本でも公刊)の草稿の中で、日米半導体協定に付随する秘密書簡に触れたくだりがあったのだ。同氏が日米関係の本を執筆中だと聞いて、その内容を知ろうと、いろいろと手をまわしていたのだが、その内容には驚かされた。

 

 米国製半導体の日本でのシェアを「5年以内に20%」となるように日本側が「努力する」という文言が書簡に盛り込まれていた。自由貿易を標榜する日米が具体的な数値目標を明示してシェアで談合していたわけで、双方とも、これを表には出しにくかったのだろう。この本が出てから、米国側は書簡の存在を認め、「交渉の過程にあったメモで、書簡は存在しない」と否定していた日本政府も数年後には認めた。

 

 米国に赴任する前に、秋葉原で買いあさった半導体をバッグに詰めて米国で売りさばくブローカーがいる、という話を記事にしていた。だから、半導体協定がザルになっていることは知っていたが、日本製半導体のダンピング防止を定めた協定をもとに、制裁というやり方はずいぶん乱暴だと思っていた。しかし、この秘密書簡を見れば、米国製半導体の日本市場でのシェアを定めた秘密条項が加わっていたわけで、協定違反としか説明のなかった制裁の裏には、秘密協定が守られていないという、それなりの根拠があったということになる。

 

 だからといって、米国の制裁発動が正当化されるわけではないが、こうした文書の存在を国民が知っていれば、制裁に対する国民の反発もだいぶ異なったものになったのではないかと思う。その後、同氏にインタビューする機会があり、秘密書簡について尋ねたら、次のような答えが返ってきた。

 

 「こうした方法は、両国間の思い違いを避けるうえで、適切なものとは思えません。どちらも民主主義の国ですから交渉の結果は国民に知らせるべきです」

 

 日米摩擦を米国側で取材していて学んだことは、「喧嘩両成敗」「どっちもどっち」ということだ。どちらにも、それぞれの言い分があり、一方的にどちらかが悪いとか、正しいということは、あり得ない。「摩擦記者」として、そんな知恵を学んだように思う。

 

 ◆ワシントンは米国ではない?

 

 ここまでは、「書いた話」だが、「書かなかった話」もある。アイオワ州の農業地帯を取材したときのことだ。日米経済摩擦では、コメ、牛肉、オレンジなど日本が渋る農産物市場の開放を求める米政府の要求は厳しく、摩擦記者として、米農民の怒りの声を聞いておきたかった。

 

 ところが、日本市場は売り先のひとつということもあって、農業団体の反応は怒りというよりは、もっと買ってほしいといった要望がほとんどだった。豚肉の加工業者などの企業を回っても、日本向けの自社製品の宣伝に力を入れていた。売り手と買い手の関係は、どこも同じだと思った。日本のメディアが来るのは珍しかったのか、地元のテレビ局からは逆に取材される始末だった。

 

 リポーターから取材目的を問われたので、「貿易戦争の話を聞きに来た」と答えたら、「米国が日本と戦争をしているのか」と問い返された。私たちがいつも使っていた「貿易戦争」という言葉になじみがなかったようだ。こちらとしては、拍子抜けだったが、ワシントンの常識は米国の常識ではないとか、ワシントンは米国でないと、言われていることをあらためて実感した。

 

 このアイオワ州のルポは記事にしたが、日本市場にもっと農産物を売り込みたい農業地帯の意識と、日本の農産物市場をこじ開けようと息巻くワシントンとの温度差については、十分に書けなかった。

 

 ◆記者仲間に〝摩擦〟なし

 

 本社からは、「また抜かれてるぞ」という電話を頻繁にもらっていたが、各社の経済担当記者は、私にとっては、ライバルというよりも、特オチを救ってもらう存在だった。

 

 日米構造協議の交渉がワシントン郊外の民家で行われているというので、日本の経済担当がそろって、民家の前で、交渉が終わるのを待っていたことがある。夕方になっても、まったく動きがないので、本当にここで交渉が行われているのか、確かめようということになった。

 

 この情報も他社の記者に教えてもらった恩義があったためか、じゃんけんで負けたのか、私が代表してその家を訪問することになった。意を決してドアをノックした。顔を出したのはUSTRの日本担当官で、「何しにきたの?」とあきれ顔で言われてしまったが、「協議続行中」という情報を記者の皆さんに提供することができた。これも書けなかった話である。

 

 日米経済摩擦は、日本のバブル崩壊とともに急速に弱まり、いまや歴史のひとコマになってしまった。しかし、米国と中国との貿易摩擦、そして日本と東アジア諸国との政治摩擦は、日米経済摩擦よりも深刻な状態になっているように見える。摩擦が高まり発火すれば、貿易戦争どころではない。どちらかが一方的に正しいということはない、という「摩擦記者」時代に得た知恵で、ニュースを見ることにしている。

 

たかなりた・とおる

1948年生まれ 71年朝日新聞社入社 アメリカ総局員(ワシントン) 経済部次長 アメリカ総局長 論説委員 宮城県石巻支局長などを務める 2011年から18年3月まで仙台大学教授 現在はネットメディア「情報屋台」を主に時事コラムを執筆 NPO法人東日本大震災こども未来基金理事長 著書に『ワシントン特派員の小さな冒険』『アメリカの風』『さかな記者が見た大震災 石巻讃歌』など

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