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東欧革命後の混乱取材 波瀾万丈の出国劇も(岡田 実)2018年3月

 1990年夏から2年間、特派員としてウィーンに駐在した。1989年後半に雪崩を打って起きた東欧改革を受け、ドイツ・東欧全域をカバーする仕事だった。

 

 ドイツ統一やワルシャワ条約機構解体、ユーゴ戦争、チェコスロバキア分裂、さらには湾岸戦争やソ連崩壊直後に生まれたロシアの経済改革まで取材し、世界史の大転換に立ち会うことができた。

 

 政権や野党の幹部、政治、経済の識者から市井の人々まで幅広く声を聴き、ルポやインタビュー記事、連載企画にまとめた。これによって、それぞれの国の全体像をつかみ、近い将来まで予測することが、ある程度はできたと自負している。国家の統一、分裂、独立を目の当たりにして、盤石に見える国家という存在が意外にもろいことも実感した。

 

 90年10月2日のドイツ統一前夜。ベルリンのブランデンブルグ門周辺で、統一を祝う50人以上を取材した。3日午前0時を期して東ドイツの共和国宮殿(国会議事堂)に掲げられていた同国国旗がするすると降り、東ドイツが消滅した瞬間を目撃した。

 

 その場にいたミュンヘン在住のドイツ人が「国を失うなんて東ドイツの人はかわいそうだ」と、同情した。すると西ベルリンで生まれ育ったという友人が「何を言うんだ。われわれはずっと壁に囲まれて暮らしてきた。ドイツが一つになるほど素晴らしいことはない」と反論した。私にはどちらの気持ちも理解できた。

 

 取材のエピソードには事欠かない。中でも90年末、ルーマニア革命1周年の取材で体験した小さな冒険旅行が記憶に残っている。いま振り返っても、革命後の混乱や人々の意識が鮮烈によみがえる。

 

 

◆緊迫したルーマニア革命1周年

 

 東欧で唯一流血革命となったルーマニア。革命1周年を記念する市民集会が90年12月21日昼から、ブカレスト大学広場で2万人を集めて開かれた。

 

 広場は1年前、革命派とチャウシェスク前政権側が激しく銃撃戦を繰り広げ、多数の死傷者が出た場所。集会は犠牲者の追悼が目的だが、「イリエスク新大統領は共産主義を捨てていない」との疑念を持つ市民たちが「第二の革命」を叫び、夜を徹して行われた。翌日にはゼネストにまで発展した。

 

 警官隊が遠巻きにし、誰かが爆竹などで挑発すれば銃撃戦が始まりそうな気配。いつでも逃げられる位置を考え、取材を進めた。

 

 一連の取材を終え、23日、空路ウィーンに帰る予定だったが、ストで空港が閉鎖された。現地にいる「赤旗」支局長に相談すると「国際列車は動いているが、やめた方がよい」と忠告された。

 

 彼の友人が数日前に列車でハンガリーからルーマニアに入った際、国境で男たちが乗り込んで来た。酒を勧められ寝込んでしまった。目が覚めると財布がないうえ、ものすごい形相でにらまれ、何も言えなかった―という。革命後の混乱で警察力が弱まり、国境周辺では犯罪が頻発しているそうだ。

 

 列車だとハンガリーを経由しなければならず、飛行機で来た私は同国のビザも持っていない。

 

 ただ、いつまでもブカレストにいるわけにいかないので意を決し列車に乗ることにした。安全な一等寝台を確保できれば、と車掌に50ドルのチップを渡した。当時のルーマニアでは結構な額だ。彼は「ビザは列車内で取れる」と言い、丁重にも私を駅長室に案内した。

 

◆ビザなく列車から降ろされる

 

 列車は23日午後7時発ブダペスト行きのオリエント急行。ところが一向に出ない。夜中の2時を回ると10数人の乗客が駅長室に押しかけてきた。一人でいた私に口々にまくしたてる。列車の遅れを憤っていたのだろうが、言葉を解しないアジア人相手ではらちが明かない。彼らは早々に引き上げた。

 

 やっと出発したのは24日午前5時。実に10時間遅れだ。寝台車に乗り込んだら大変なオンボロ。これが世界に名高いオリエント急行かとがく然とした。部屋にルーマニア人2人がイコン(聖画像)をたくさん抱えて乗り込んできた。手まねで話すと、イコンをブダペストで売るのが目的なようだ。

 

 10時間ほど走り、午後3時、国境近くのクルティチ駅に着いた。ルーマニアの旅券係が来て2人を列車から降ろした。イコンを調べるらしい。2人が無事戻って来たので「よかったね」と合図した。次にハンガリー側の旅券係が入って来てビザを見せろと言う。「列車内で取れるはずだ」と言ったが、有無を言わせず、今度は私が降ろされてしまった。

 

 荷物を持ちあぜんと立っていると、車窓から乗客が「ビザなら国境で取れるぞ」と、ドイツ語で話しかけてきた。国境までは60㌔あるという。

 

 そのうち数人の男が寄って来た。国境まで運ぶ白タクらしい。その中に英語ができる30代半ばの青年がいたので、迷わず彼を選んだ。

 

 日が落ちかけていて、荒れた畑地帯を走り続けた。下手すれば身ぐるみはがされるかもしれない。

 

 すると彼の方から「日本ではクリスマスを祝うのか?」と、聞いてきた。そうだ。今日はクリスマスイブだった。

 

 彼は「今日は特別な日だ。チャウシェスク時代は祝えなかったが、初めて祝える。あなたを送ったら早く家に帰りたい。妻と娘がケーキを焼いて待っているから」と、答えた。

 

 彼は、ドイツ系ルーマニア人で、電車のパンタグラフの技師。高圧電線を扱う危険な仕事で、白タクは副業という。カネをため家族でドイツに旅行するのが夢だ―と熱っぽく語った。

 

 国境に着いた。薄暗かったが原野が広がり、柵の向こうに小屋のような入国管理事務所がポツリと立っている。門扉は無人で、歩いてハンガリーに入った。

 

 そこでビザを取得できたものの、ここから最寄り駅のベーケシュチャバまでさらに50㌔。タクシーを呼んでもらい、ひた走った。

 

 ハンガリー通貨フォリントを持っていなかったのでいろいろもめたが、ベーケシュチャバから3時間列車に揺られ、ブダペスト東駅に着いたのは夜中の12時を回っていた。ホテルを数件回り、泊めてくれる場所をやっと見つけた。

 

 翌日早朝、ブダベスト駅に行くと、イコン売りの2人に出会った。私を心配してくれていて、思わず3人で抱き合ってしまった。

 

 ウィーン到着は25日昼。空路なら2時間足らずの行程が、2日近くかかる長い長い旅だった。もし列車が定刻に出ていたら、クルティチに着いたのは真っ暗な午前5時。物騒な時間帯で、列車の遅れがかえって幸いした。

 

◆ブカレスト再訪 大統領銃殺を問う

 

 92年5月にブカレストを再訪し、革命政権で首相を務めたペトレ・ロマン救国戦線議長に単独インタビューした。イリエスク大統領と前年秋に袂を分かっており「鉱山労働者の暴動を利用して私を政府から追い出した」と、同大統領を厳しく批判した。政治情勢は依然、安定にはほど遠かった。

 

 彼に「チャウシェスク前大統領の銃殺に関与したか?」と聞いてみた。簡易裁判の直後に処刑されたことに世界中から批判が出ていたからだ。ロマン氏は「すぐ処刑されたことは知らなかった」と、否定した。

 

 ルーマニアのみならず東欧各国で、自分たちの行く末を真剣に考え、変革に伴う困難な中でも家族を愛し、したたかに生き抜こうとする人々に数多く出会えた。これが私の財産になっている。

 

おかだ・みのる

1973年北海道新聞社入社 本社と東京支社の政治経済部 ウィーン駐在 経済部長などを経て取締役 2014年専務取締役で退任 現在 フリージャーナリスト

 

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