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人間「フジモリ大統領」 功罪相半ば、愛すべき大衆政治家(鳥海 美朗)2018年2月

 昨年のクリスマス、南米ペルーから懐かしい人物のニュースが流れてきた。禁錮25年の刑を受けて収容されていたアルベルト・フジモリ氏(79)が大統領恩赦によって釈放され、自由の身になったという。

 驚かされたのは、その後も年始にかけて続いたペルーからの報道だった。それによれば、フジモリ氏は病床にあってなお、政治権力奪取への道筋を探っているらしい。

 

◆単独会見4回

 私がフジモリ氏を取材することになった発端は産経新聞のロサンゼルス特派員だった1996年12月17日(ペルー時間)、首都リマで起きた日本大使公邸人質事件だった。事件の発生から解決(97年4月22日)、さらにその後のフジモリ政権の動静取材で、4年余りの間にロサンゼルス~リマ間を計11往復している。

 フジモリ氏は私にとって、「単独会見」の機会を与えてくれた唯一人の国家元首だった。ペルーの現職大統領時代に3度、会見に応じてくれ、失脚して日本に滞在していた2005年にも東京で話を聞かせてくれたから、都合4度となる。

 初めてのインタビューは、人質事件の解決から1年後の98年4月14日。私はまず、ペルー軍特殊部隊による人質救出に至るまでの日本政府との協議について聞いた。日本大使を含む71人の人質を救出した突入作戦は、一つ間違えば人質全員が死亡したかもしれなかったからだ。

 フジモリ氏は、解決2カ月前にカナダで行われた橋本龍太郎首相(当時)との会談で「事件解決に向けての手法で意見の食い違いがあった」と明かし、断固とした口調で語った。

 「話し合いが成功しない場合に備え、すべての準備が必要だった」

 テロ集団との交渉で弱腰になりかねない日本的な手法をはねつけた日系人大統領の固い信念に、私はハッとさせられた。

 90年の大統領選で初当選したフジモリ氏は、破綻した経済を立て直し、過激派武装組織の掃討や麻薬の撲滅で成果を上げた。一方で、政策を迅速に実現しようと、憲法を停止し、国会を閉鎖する「自己クーデター」を敢行(92年)している。

 このフジモリ流強権政治について、私はたびたび批判的な記事を書いた。しかし、振り返ってみると、表層をとらえたものばかりで、フジモリ氏の内面に迫る記事は一本も書けていない。

 2度目のインタビューについてふれる。私自身の失敗談でもある。

 フジモリ氏にとって3回目となる大統領選の投票を2日後にひかえた2000年4月7日の深夜(ペルー時間)だった。場所は前回と同じ、大統領府の一室「グラウの間」。

 

 ◆「どうか、スペイン語で」

 30分ほど待たされた後、大きな扉を押しのける勢いでフジモリ氏が入ってきた。一人である。短いあいさつの後、奇妙な混乱が起きた。

 米国留学の経験があるフジモリ氏は英語を使いこなすが、自分の考えを最も正確に表現できるのはスペイン語だ。だから、私は(私自身の英語力も考慮して)前回同様、スペイン語通訳(日系人)を帯同していた。

 会見の冒頭、私が英語で「通訳がいますからスペイン語で答えてください」と切り出したことが混乱の原因となった。私の質問(日本語→スペイン語)に対し、フジモリ氏は延々と英語で答え始めたのである。

 たまりかねた私が「どうか、スペイン語で」と日本語で遮り、やっとフジモリ氏はスペイン語を話した。

 「さっきまで、ドイツ大使(と私は記憶している)との会食でね。ずっと英語で喋っていたものだから」

 弁明するフジモリ氏の表情には疲労がにじみ、頬のあたりが赤みを帯びていた。少し酔っていたのだろう。

 この時の選挙戦で、フジモリ氏は苦戦していた。それは、フジモリ氏による「自己クーデター」後に制定された新憲法が大統領の3選を禁止したにもかかわらず、フジモリ与党が大統領任期の起算を「新憲法下で実施された選挙(95年)から行う」とする内容の憲法解釈法案を強引に成立させてしまったことに起因する。

 ――政権をもう一期(5年)担当したい理由は

 「ここで人気取り政策に陥ったら、苦労が水の泡になってしまう」

 大統領選は第1回目の投票ではフジモリ氏も対立候補も共に過半数の得票に届かず、決選投票に持ち込まれた。その前日の5月27日午後、大統領官邸から再び「単独会見OK」の連絡が入った。フジモリ氏は私を「親フジモリ派」とみていたようだ。

 ――決選投票を強行すれば、国際社会はペルーに経済制裁を加えるのではないか

 「米国は最終的には納得してくれると思う」

 歯切れの悪い返答だった。

 

 ◆「ラテンなんだなぁ」

 フジモリ氏には、政治家としてうぶな一面があるように思えてならない。最大の失策は、ウラジミロ・モンテシノスという、スパイ行為や反逆罪で起訴された経歴をもつ奇怪な元軍人(不正武器輸出などで服役中)を登用したことだ。「国家情報局顧問」という肩書きを与え、テロ対策や議会対策までを任せる腹心にしてしまった。

 決選投票で大統領3選を果たして4カ月後の2000年9月、モンテシノス顧問が野党議員に現金を渡す録画映像が暴露された。その後のフジモリ氏の波乱の旅路は周知の通りだ。同年11月、ブルネイでの会議出席後に東京で辞意を表明したフジモリ氏は事実上日本に亡命。そして5年間、作家の曽野綾子氏(当時日本財団会長)宅や支援者が提供するマンションなどを転々とした。この間、ペルー検察当局は、軍が民間人を過激派と誤認して殺害した事件にフジモリ氏が関与したとして人権侵害罪で訴追(01年9月)した。

 ペルー大統領選(06年)への出馬を表明したフジモリ氏が、産経新聞外信部の単独会見の申し込みに応じたのは05年10月28日。東京都内のホテルに自分で車を運転してやってきた。

 ――5年前、政治亡命を選択したのはなぜか

 「再びペルーに貢献するため、私が無事でいることが大事だと判断した」

 ――あなたは今、日本にも戸籍をもっているが、自分自身ではペルー人と思っているのか

 「私は100パーセント、ペルー人だ」

 この1週間後、フジモリ氏は日本を出国した。チリで2年間軟禁状態になった後、07年9月にはペルーに移送されたのだった。

 日本財団の笹川陽平会長はフジモリ氏の素顔をよく知る。個人的に物心両面で支援を続け、リマ郊外の収容先にもたびたび足を運んでいた。

 日本財団はフジモリ政権時代にペルーで学校建設支援プロジェクトを展開し、93年から97年までに計50校を建てた。そんな縁がある。笹川氏はフジモリ氏がペルーに必要な政治家だと思っていた。フジモリ氏は一刻も早くペルーに戻りたがった。しかし帰還の時期について、笹川氏は「条件が整ってからだよ」と自重を求めていたという。

 「ところが、僕が海外出張に出かけた留守に、ひょいと飛行機に乗って行ってしまった」

 07年7月、チリで軟禁状態に置かれていたフジモリ氏が日本の参院選に当時の国民新党から比例代表(名簿4位)で出馬し、落選した。「ペルーのためにもう一度働きたい」という前言とは明らかに矛盾する。笹川氏はあきれた。

 「何を考えているのだと文句を言ったのは、僕一人ですよ」

 フジモリ氏の突飛な行動について、笹川氏がつぶやいた。

 「ラテン、なんだなぁ」

 大統領選の街頭キャンペーンはいつも陽気だった。フジモリ氏は演説の合間、大音響のリズムに合わせ、腰をくねらせながら踊っていた。

 功罪相半ばする人物。ではあるが、あのダンスを思い出す時、私にとってもフジモリ氏は、愛すべき大衆政治家になってしまうのである。

 

(1月30日記)

 

とりうみ・よしろう

1973年産経新聞社入社 ロンドン ロサンゼルス各支局長 外信部長 編集長などを経て論説委員 2013年6月退社 同年7月から日本財団アドバイザー 著書に『鶴子と雪洲~ハリウッドに生きた日本人』(海竜社) シリーズ『日本財団は、いったい何をしているのか』(1~4巻 木楽舎)など

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