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永六輔さんとホヤの苦い思い出(富田 詢一)2017年11月

東北、北海道の人たちには悪いが、私はホヤが苦手で食べられない。その原因は永六輔さんにある。永さんのお供で東北、北陸を旅したことがある。今から40年以上前のことだ。私は当時、雑誌「話の特集」編集室に勤めていた。永さんは常連執筆者で、出資者でもあった。編集兼発行人(社長)の矢崎泰久さんとは、じっこんの間柄であった。

 

若輩の私などがいうのはおこがましいが、永さんは反骨の人だった。一緒の旅は尺貫法復活のキャンペーンコンサートだった。仙台から青森、秋田、金沢、福井の小ホールで歌とおしゃべりステージ。私の役割は付き人、そして永さんの本『死にはする殺されはしない』の販売。青森の主催グループが永さんと私をもてなしてくれた席に出されたのが酢の物のホヤだ。永さんも苦手だったのか。自分の小鉢をさっと私に回した。「君は沖縄で食べたことないだろうから、食べなさい。おいしいです」と。言われるままに口に運んだが、思わず吐き出しそうになった。

 

予備知識がなかったのと、口の中で広がる石油臭に往生した。吐き出すわけにいかず、まわりの人たちから「沖縄出身ですか、これは海のパイナップルとも言うんです」と説明されるのを涙目でこらえつつ飲み込んだ。以後、幾度か挑戦したが、やはり無理だった。

 

このころ計量単位はメートル法で統一され、曲尺や鯨尺が違法で逮捕者も出た。ゴルフ場の距離表示がヤードからメートルに変えさせられたことを覚えておられる方もいようか。永さんはラジオで、これから曲尺を売るから逮捕しろ、などと挑発し、尺貫法の復権を訴え続けた。

 

金沢で一緒に朝食をとったときは焼け跡世代の食べる速さに驚いた。膳にはふた物が多かったが、私がご飯とみそ汁をいただく間に、永さんは完食。私はふた物は開けずじまい。食べたふりで済ませた。永さんは私に対して必要以上のことは話さなかった。旅の間、私はひたすら永さんの背中を見ていた。それで十分学ばせていただいた。

 

私は「話の特集」を辞め、1977年琉球新報社に入社した。永さんは来沖すると、よく社に来られた。ある日、那覇市に開店予定の沖縄ジアンジアン(小劇場)をやらないかと誘われたことがある。付き合いのある芸人を連れてくるので、君がやれば、自分はノーギャラでいいといったあんばいである。丁重にお断りしたが、新聞社勤務でなければどうなっていたか。

 

話は前後するが写真は、私が「話の特集」に入社した74年12月の日本武道館で行われた「花の中年御三家大激突 ノーリターンコンサート」の一コマだ。矢崎さんがプロデュース、司会は愛川欽也さんと中山千夏さんで、左から小沢昭一さん45歳、野坂昭如さん44歳、永さん41歳である。今さらのように、こんなにも若かったのかと思う。永さんに至っては私の子どもの歳である。

 

とはいえ、この御三方は当時すでにしてまばゆいばかりのビッグネーム。雲の上の存在であった。「話の特集」にはこのほか、井上ひさし、竹中労、五木寛之、浅井慎平、横尾忠則、和田誠、田島征三、黒柳徹子、中山千夏の各氏らが常連で登場していた。私は永さんをはじめ、これらの方たちと接することのできる環境に恵まれた。3年の経験が、のちの新聞記者生活にも大いに役立ったことは言うまでない。

 

(とみた・じゅんいち 琉球新報社代表取締役社長)

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