ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


書いた話/書かなかった話 の記事一覧に戻る

永田町取材あの時この時 「口止め」の重さ、「内緒話」の難しさ(国分 俊英)2017年8月

1972年から政治部長を終えるまで20年以上、永田町の政治取材に携わった。学生時代は当時の言葉でいうノンポリであった。それが政治、政治家や選挙に興味を持ったのは「大学5年」のときで、政治の取材・報道をやりたいと思いはじめた。

 

◆愛知揆一選挙事務所でバイト

 

きっかけは佐藤栄作首相の手で行われた66年の年末解散、翌67年1月の総選挙。貧乏留年生を見かねた知人が「3食・酒付き(わたしは飲まなかったが)、日当千円。やってみないか」と、愛知揆一氏の選挙のアルバイトを紹介してくれた。

 

翌日から仙台の大きいが古い愛知邸の多分、会合用に使う奥座敷に通った。アンドーさんという酒好きの事務局長の指示通り、選挙カーのルート、ミニ演説の場所などを分刻みで記した表を作り、ガリ版で切り謄写版で刷る。それを市内の選挙事務所、宮城県庁と仙台市役所の記者クラブに届けるのが主だった。記者クラブや記者の活動も垣間見た。

 

この選挙は「黒い霧解散」と呼ばれた。愛知氏は宮城1区(中選挙区制)で後援会も盤石、圧倒的に強かった。文部相で佐藤派の幹部だったから他候補の応援で忙しく、選挙区を駆けめぐったのは夫人だった。夫人は酒豪。遊説から帰宅すると「駆け付け3杯」で、日本酒を「ああ、おいしい」と言いながら飲み干す。これが毎日だから驚いた。

 

愛知氏が一度だけ帰宅した。アンドーさんが「紹介するから」と応接間に連れて行った。あいさつすると愛知氏は「君は俺に入れてくれるかい」と聞く。黙っていると「いや、いいんだよ。今から自民党に入れることはない。そのうち分かるようになるから」。

 

東西冷戦下、親米の自民党と親ソ・親中の野党第一党・社会党が2大政党を構成し、対立していた。愛知氏は何を言いたかったのだろうか。わたしなりの解釈は、学生は理想などを大事にしなさい、しかし、社会に出たら観念的な思考は通用しないことが分かってくるから、という意味だろうと思った。おおようで示唆に富むことを言う政治家もいるものだと感じた。

 

◆見逃した特ダネのヒント

 

政治記者になったのはポスト佐藤をめぐる「角福戦争」の最終盤のときで、勝利した田中角栄氏が政権の座に就いた。わたしは特ダネ記者ではなかったし、手柄話を書くつもりもない。当時のメモから失敗のケースを再現した方がメディアの現場の人たちに役立つのではないかと思う。

 

駆け出しとして1年半ほど田中首相番を務めた。共同と時事は朝から晩まで動静を追った。これはこれで面白かった。特にゴルフに行ったときがそうだった。田中氏は多いときは1日2・5ラウンドも回る。

 

付き合える同伴者はいない。昼、クラブハウスに戻ると「おーい、一緒にメシを食おう」とよく声をかけてくれた。田中氏は饒舌だった。政治の際どい話に及ぶと、秘書官が「ここだけの話です。社には上げないでください」と念を押す。

 

73年5月の日曜日の小金井カントリー倶楽部。昼食の席で「夕方から結婚式に出る」という話となり、秘書官は「隣席は河野謙三さん(参院議長)です」と言う。この時期、田中氏は衆院に小選挙区制を導入しようとし、野党や世論に反対の声が激しかった。

 

翌日の朝日新聞を見て驚いた。田中氏が河野氏に小選挙区制断念を伝えたと一面トップである。河野氏は田中氏の理解者だったが、小選挙区制に突き進むことをいさめていた。田中氏と秘書官のやりとりは示唆で「河野さんから話を聞け」という意味だったのだろう。それに気付かずデスクにも報告はしなかった。不明を恥じた。

 

◆書けなかった「後藤田幹事長」

 

自民党の平河クラブでは中曽根派を担当した。中曽根派はまだ弱小派閥で、担当記者は他の小さな派閥と兼務していた。三木武夫内閣で中曽根氏が幹事長に就任すると、各社とも独立した担当記者を置くようになった。その第1期である。

 

中曽根邸への夜回り、朝駆けを続けたが、大抵の記者は次に中曽根派幹部の宇野宗佑氏(後の首相)へ向かうのを常としたが、わたしとNHKの滋野武氏(後に理事)は違った。中曽根氏の腹心として自民党総務会長を務めていた佐藤孝行氏邸に足を向けた。

 

佐藤氏はロッキード事件で有罪判決を受けたが、事件は事件として、田中角栄氏と中曽根氏とのパイプ役を水面下で続け、貴重な取材源だった。中曽根政権の誕生に果たした役割は大きい。夜は夜で首相公邸へ密かに入り協議を続け、支えた。政局のプロというべきで、温厚な苦労人であった。

 

中曽根政権誕生のいきさつは、周知の通り82年、鈴木善幸首相が退陣表明したことによる。後継をめぐる調整は不調に終わり、総裁予備選となり、結果は田中、鈴木、中曽根の3派により中曽根氏が圧勝する。この過程をわたしは直接フォローしてはいなかったが、応援団的に取材はしていた。

 

予備選中、佐藤邸を夜回りしたときのこと。中曽根氏勝利の見通しを前提に政府・党の人事の話に及ぶと、佐藤氏は「中曽根さんは官房長官を田中派に頼むよ」と語り「後藤田(正晴)さんだよ。すでに中曽根さんが角さんに話している」と明かす。「角さんは『女房役ぐらい自分の派閥から出したらどうだ』とは言っていたが、後藤田さんになるよ」

 

当の中曽根派では官房長官は宇野宗佑氏説が出ていた。わたしは中曽根さんの人事構想の大胆さに驚いた。玄関まで見送りしてくれた佐藤氏は「これはここだけの話。絶対内緒だから社にも上げないでね」と言い、厳守を求めた。

 

話は自民党担当キャップには口頭で伝えた。こうなると、記事にするタイミングが難しい。予備選の終わりごろか終わった直後、佐藤氏に「後藤田さんの話、もう書いてもいいですかね」と何度か確認した。「うーん、もう少し待ってね」

 

そんなやりとりをしている最中、読売新聞が一面トップで報じた。

 

佐藤氏は閣僚や自民党の主要人事が固まるまで待ってくれと言う。しかし、この話を知っているのは佐藤氏だけとも限らない。いつ漏れるかも分からない。ストレートニュースではなくとも書けるのではないか。そんなことも考えたが、結局「口止め」の重さを大事にした。

 

事件の渦中、あるいは逮捕・起訴された政治家への取材は悩ましい。田中金脈問題のとき「俺は全部知っていた」と言った政治記者がいたという。それはうそだと思う。政治取材と疑惑取材は両立しにくいのだ。

 

今でも明かせない、佐藤氏が語ったメモがあることはある。だが、それは積極的にわたしが聞き出したものではない。事件を追った社会部経験者から怒られそうだが、今でも仕事の役割分担と思っている。

 

◆1本の電話で救われた特落ち

 

76年6月の日曜日の夕方、中曽根氏の秘書から自宅に電話がきた。「例の話、記事にするので幹事長の談話が欲しいと数社から申し入れがきているが、国分さんのところも欲しいですよね」。例の話とは、ロッキード事件を批判し河野洋平氏ら6人が自民党を脱党することである。後に新自由クラブを結成する。

 

河野氏らは中曽根派に籍はあったが、派閥の会合には顔を出さず「政治工学研究所」を結成し、活動していた。脱党の情報は耳にし、幹事長番の傍ら取材を始めていたところだった。秘書に「幹事長は知っているの」と聞いたことがあった。それで電話をくれたのである。

 

政治部が大車輪で取材し、同僚の矢田美英氏(現東京・中央区長)が全容をつかんだ。脱党は数社の政治記者OBが支援し、一斉に報じる予定だった。1本の電話が特落ちを救ってくれた。取材の甘さが身に染み、人のネットワークの大事さを感じた。

 

こくぶん・としえい

1968年共同通信社入社 社会部福岡・編集部から72年政治部 政治部長 編集局次長などを経て 編集局長 常務理事(編集、国際担当) 共同通信会館代表取締役専務を歴任 現在 共同通信社友会会長

 

ページのTOPへ