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3・11から4年:風化させない決意2015(2015年3月) の記事一覧に戻る

いまだ途上の福島の復興(福島民友新聞社 白坂俊和)2015年3月

東京電力福島第一原発事故の被災地である双葉郡広野町で生活を始め、間もなく1年になる。この1年で原発被災地の環境は目まぐるしく変わったが、発生から4年たった今も何も変わらない現状もある。

 

福島民友新聞社は昨年3月、双葉郡の取材拠点となる「ふたば支局」を原発事故収束の最前線拠点で、福島第一原発から南に20~30㌔の場所に位置する広野町に開設した。報道機関の記者が常駐する郡内唯一の拠点で、地元紙として被災地の現状を住民の目線で取材している。

 

津波被害を免れた沿岸部にある支局からは、4年前に巨大な津波となって押し寄せた太平洋が目に入る。町の沿岸部ではようやく堤防や防災林の復旧工事が本格化し、来年にはこの海も見えなくなるだろう。

 

支局周辺では復興に向けた再開発事業も始まり、わずかながら復興の足音が感じられる段階に入ってきた。春には郡内の教育復興の核として期待される県立中高一貫校「ふたば未来学園高校」が町内に開校する予定で、さらに環境は様変わりするはずだ。

 

しかし、郡内で唯一全域で避難指示が出ていない町の帰還住民は震災前の人口の約5割にとどまり、必ずしも復興が進んでいるとは言えない。広野町と一部に避難指示が残る川内村を除けば、郡内の大部分で避難指示が続き、復興からは程遠い状況だ。日々、取材に向かう避難区域内は、原発収束や除染に携わる作業員の姿ばかりが目立ち、住民と出会うことは少ない。震災で倒壊した住宅が今もそのままの形で残る場所すらある。

 

避難指示解除の議論はこれから本格化する見通しだが、解除したといっても住民帰還が進むかは不透明だ。実際に郡内で生活してみると、買い物や病院など生活に必要な施設の再開が進まず、不便を感じることが多い。事故後、多くの子どもたちは避難先の学校に通い始め、高齢者も避難先の病院に通っている。

 

帰還したとしても避難後に見つけた職場への通勤の問題や根強い放射線への懸念。作業のため見知らぬ人々が急増することへの住民の不安、そして原発賠償の問題など避難者が抱える課題は複雑で多岐にわたる。

 

さらに、除染で出た汚染土壌などを保管する中間貯蔵施設の建設や、今もトラブルが相次ぐ福島第一原発の収束作業など、復興の課題は山積みだ。

 

■住民の取り組みに光を当てて

 

ただ、明るいニュースがないわけではない。震災から4年がたち、古里の復興のため地域環境や産業、文化などの再生に乗り出す住民も増え始めている。

 

川内村では、特産のそばに再び光を当てて全国に発信する取り組みが動き出し、ほぼ全域が避難区域の楢葉町でも漁協を中心に、町の誇りだった木戸川のサケ漁の再開を目指している。被災地を南北に縦断する国道6号に桜並木をつくるため、全国を巡り協力者を募る広野町の女性は「子どもたちに復興した美しい古里の姿を見せたい」と前を向く。今はこうした住民の取り組みに光を当てることが、復興を後押しすることにつながると思っている。

 

震災から4年。地元メディアはもちろん、全国メディアがさまざまな視点から特集を組み、被災地の現状を紹介するだろう。だが、こうした報道がいつまで行われるのか。国が定めた5年の集中復興期間も来年度を残すのみとなり、すでに各地で震災の風化も指摘され始めた。福島の復興はいまだ途上。被災者の声を少しでも多く届け続けていきたいし、被災地で暮らす住民の一人として他メディアにもそれを望んでいる。

 

(しらさか・としかず 2002年入社 白河支社 川俣支局長などを経て 14年3月からふたば支局長)

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