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3・11から4年:風化させない決意2015(2015年3月) の記事一覧に戻る

網からこぼれる人たちがいる(福島民報社 佐久間順)2015年3月

全国のメディアの方々にお願いしたいのは「原子力災害の現場とはどういうものか、一度は現地を見に来てほしい」ということだ。私自身、全国の被災地にすすんで足を運んだ経験もないことを棚に上げてのお願いだ。

 

何の準備もない10万人単位の避難とはどんな事態なのか。住民が突然消えて4年もたつとマチはどうなるのか。東京電力福島第一原発事故による住民避難は日本の歴史上、特異な出来事だ。その現場を感じ、問題を少しでも共有してほしいのだ。

 

第一原発から約25㌔の距離にある南相馬支社の勤務となったのは事故から2年後の2013(平成25)年4月。事故直後の11年5月、取材のため南相馬市に入り、バスの車窓から見たマチにはわずかな人影しかなかった。勤務地となって歩くマチは表向き、どこにでもある地方都市の風景を取り戻しつつあった。しかし、そうではないことを示す事実は、今も取材者であるわれわれに突き刺さってくる。

 

南相馬市で地震や津波のために亡くなった直接死は525人(2月15日現在)。この数字は行方不明者の死亡確認がなければ動くことはない。しかし、避難に伴う生活環境の悪化や心労などのために亡くなる震災関連死は469人(同)で、こちらは避難が続く限り増え続ける。県全体では今も12万人近くが避難生活にあり、県全体の関連死は1855人(同)と直接死の1603人を上回っている。全町避難が続く浪江町、富岡町などでは関連死が直接死を大きく上回っている。

 

南相馬市小高区は16年4月、その南側の浪江町は17年3月の避難指示解除を目指して、除染、被災家屋の解体、生活インフラの整備などが進みつつある。南相馬の人が外部からの視察者を案内する際、原発に近い浪江や小高を先に回るという。後回しにすると、復旧への動きがあるとはいえ、ほぼ震災直後のままで残る壊れた街並みの印象が強すぎて、他の復興の場面が記憶に残らないからだ。

 

4年という時間は人の心を古里から遠ざけた。「子どもも近所も戻らない場所に自分だけ帰っても」という声を幾度となく聞く。失われてしまった家族や地域の形のない結び付きへの償いはない。

 

国は収穫された米から基準値以上の放射性セシウムが検出されなくなったことを理由に、15年度から旧警戒区域外を休業賠償の対象から外す方針を固めている。米を作っても売れない現実が変わらないのに、農家に「作れ」というのは酷なことだ。

 

営業損害の賠償も、政府と東電は打ち切り時期を決めようとしている。商圏は戻っていないのに。

 

一方で6号国道の自由通行が13年9月、可能になった。常磐線の不通区間に代行バスが走り、3月1日には常磐自動車道が全線開通した。中間貯蔵施設への除染廃棄物搬入も動きつつある。国は、着々と実績を積み上げようとしている。

 

■現実は「現場」に 自分の目で見てほしい

 

被災地で暮らす人が安定した生活を手に入れるために前進は必要だ。しかし、国が重ねる施策の網目は粗い。実績を急ぐ人の目には、網目からこぼれ落ちる人の姿は映らない。

 

4年という年月は、「非日常」という感覚を「日常」だと人間に誤認させてしまうのに十分な時間だ。被災者は今も仮設住宅で暮らし、そこで亡くなっていく。私自身、早く解決すべきそんな現実に慣らされることを拒否しなければならないと思う。

原発事故の「日常」を拒否するため、全国のメディアの皆さんの視点からあらためて発信してほしい。

 

(さくま・じゅん 1984年入社 会津若松支社報道部長 論説委員会幹事 社会部長などを経て 13年4月から南相馬支社長兼浪江支局長)

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