ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


3・11から5年:5年生記者は今/先輩記者と東日本大震災(2016年3月) の記事一覧に戻る

ちらりとのぞく「非日常」を忘れない(福島中央テレビ 佐藤昭徳)2016年3月

初めて聞くけたたましい電子音だった。その音源らしい携帯電話は隣の部屋に置いたはずだ。その瞬間、立っていられない激しい揺れに襲われた。

 

福島中央テレビへの採用が内定し、4月からの配属先に決まった制作部に、3月14日からアルバイトとして出社することになっていた。その日、本社のある郡山市に引っ越し、まだ荷物を降ろし終えないまま一休みしていた。電子音が緊急地震速報だと気づいたのは震度6弱の揺れの中でだった。

 

中にいたら危ない! 揺れが続く中、必死に外へ出て、辺りを見回すと、コンクリート塀が崩れ、泣く子どもたち、それを抱きかかえてなだめる大人、晴れていたはずなのに突然の雪が降り始めた。にわかには信じられない非日常の光景。何かすさまじいことが起きていることだけはわかった。しかし、この時の不安はまだ漠然とでしかなかった。

 

翌日の東京電力福島第一原発の水素爆発は、これから入社するテレビ局が捉えた映像で知った。福島に帰ってきたはいいが、この先どうなるのか、不安は募るばかりだった。

  

結局、私が会社に行ったのは3月20日頃で、正直に言えば、会社の方が安全かもしれないと思ったからだ。後日、先輩から「新人は本当に来るだろうかと心配していた」と言われたが、先輩たちも新入社員未満の私に構う余裕はなく、最初に命じられたのは貯蔵物資や救援物資の整理だが、実際は物資の隣に立っているだけだった。

 

数日後、ようやく仕事らしきことをした。CMを差し替えた例の「AC」の代わりに、福島の祭りや自然などのⅤTRを送出した。続いて、「L字画面」の情報更新をした。L字画面は、避難所や給水、交通機関の情報、生活必需品を扱う店の再開情報などを画面に流すもので、上司と情報をチェックした。テレビ局の非日常の中で、私の日常がスタートしたわけだが、日々慣れていく自分に少し驚いたことも覚えている。

 

4月、新入社員となった私の仕事はフロアディレクターの見習いだった。初めて生中継の現場に行ったのは、春の福島を代表する観光地、福島市の花見山だったが、観光客はまばらだった。福島市出身の私には、同じ花見山とは思えなかった。「観光客にインタビューしたいから連れてきて」という指示に、首から下げたストップウオッチと線量計をカチカチぶつけながら走り回った。三春町の滝桜でも同じだった。

 

5月10日、川内村で初めて警戒区域への一時帰宅が行われ、立ち入り拠点の体育館からの中継でフロアディレクターを務めた。住民たちはの目は、期待の一方で、不安に満ちていた。

 

私自身が警戒区域に入ったわけではなかったが、2カ月前と同じ感覚にとらわれた。

 

あれから5年が経った。福島でも、原発周辺の避難指示区域を除けば、多くの人が日常を取り戻している。3年目の国連科学委員会やWHOなどの報告は、迷いながら福島にとどまった人たちにとって力づけられるニュースだった。除染や自然減衰によって放射線量が徐々に下がる中で、前向きに復興をめざしている。10万人近くが県の内外で避難生活を続け、原発構内の困難さや子供たちの甲状腺がんをめぐる分かりにくさを抱えながらも、それは変わらない。

 

しかし、福島の外からは今なお5年前のままであるように見られているようだ。190万人が暮らす福島が困難を抱えながら復興に向かうには、ありのままの姿を見てもらうことが欠かせない。

 

私は今、夕方の情報ワイド番組のディレクターを務めていて、自分の担当する中で原発事故を取り上げることはまずない。隣のニュースセンターでは原発関連のニュースがない日はないが、あの非日常の空気が流れることはない。とはいえ、今でもちらりとのぞく非日常に注意しながら福島の日常の姿、そして美しい福島、楽しい福島を伝えていきたいと思っている。

 

(さとう・あきのり 制作部ディレクター)

前へ 2019年11月 次へ
27
28
29
30
31
2
3
4
5
6
9
10
16
17
19
23
24
25
26
29
30
ページのTOPへ