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撃沈されたことを「やむを得ない」と一言 ―戦艦武蔵を造った男との1時間―(大澤 賢)2017年4月

フィリピン中部シブヤン海。無人潜水機のライトが深海1000メートルの闇を切り裂いていく。赤青色の深海魚に続き、海底にさまざまな残骸が浮かび上がる。「これは武蔵の主砲46センチ砲の動力装置の一部」「偵察機を発進させるカタパルトが見える」などとナレーションが続く。

 

今年1月21日、NHK・BS1で放送されたドキュメンタリー番組「戦艦武蔵の最期」はおびただしい残骸と、建造した造船所や武蔵を沈めた米軍パイロットへのインタビューなどを盛り込んだ大作だった。コンピューターグラフィックス(CG)を駆使して主砲の威力を描き出し、船体(船殻)は厚さ40センチの鋼板で覆っていたなど、〝不沈艦〟の特徴をしっかりと紹介していた。

 

この番組を見ながら、若いころにインタビューした三菱重工業相談役の古賀繁一さんを思い出した。古賀さんは、武蔵の建造副主任を務めた歴史の生き証人だった。

 

◆世界最大の巨砲をもつ戦艦

 

世界最大の「大和型戦艦」2号艦・武蔵が長崎県の三菱重工業長崎造船所で起工式を挙げたのは1938(昭和13)年3月である。完成は42年8月で、すでに太平洋戦争たけなわだった。ちなみに1号艦の大和は37年11月、広島県の呉海軍工廠で起工し、開戦直後の41年12月に完成した。

 

武蔵を語るうえで必読書なのが、吉村昭著『戦艦武蔵』だろう。武蔵の巨大さを次のように記述している。

 

「その年(注:37年)の6月1日、待ちかねていた新戦艦の基本設計図と主要項目が艦政本部から首席監督官をへて造船所側に手渡された。

 

艦の長さ263メートル、最大幅38・9メートル

 

排水量(公試状態)68,200トン(満載状態)71,100トン  

 

主砲46センチメートル(18インチ)3連装3基計9門…」

 

そして古賀さんについては「…第2号艦建造主任室が創設された。そしてその主任として鉄工場長の渡辺賢介、副主任格として技師の古賀繁一が任命され…」と紹介している。

 

同書では建造を秘密にするため造船所の目隠し用に全国から大量の棕櫚が集められたことや、市民と外国人の目から造船所を隔離する方策、そして進水に向かっての緊迫した場面が克明に描かれ、主要な場面で古賀さんがたびたび登場する。

 

◆「沈没は2カ月後に知った」

 

そんな古賀さんとのインタビューが実現したのは79年夏、ある出版社から『三菱重工業』の執筆を頼まれたことがきっかけだった。小生は日刊工業新聞社の記者だった。丸の内の本社ビル(当時)でお目にかかった古賀さんは、小柄ながら大人の存在感があった。

 

当初の目的だった第一次石油ショック後の日本の造船業について聞いた後、締めくくりに「この本の目的とは違う話ですみませんが」と断りを入れて、武蔵について質問した。

 

―最後に、古賀さんといえば戦艦「武蔵」。建造に携わった一人として印象深い思い出は?

 

古賀 「武蔵」は当時の大艦巨砲主義の考え方に基づいて設計し、建造した戦艦だ。主力艦同士が相まみえて砲火を開き、雌雄を決する時に必要だったわけだ。(中略)

 

まあ苦労したというか、建造自体が機密だったことと、進水の問題が厄介だった。そのころの各国の戦艦と比較して船幅が極めて大きかった。また長崎港の幅が狭いため、勢いよく進水すると対岸にぶつかる恐れがあった。しかし、三菱はこの二つは解決できるということで引き受けたわけだ。

 

「武蔵」が沈んだことは、その二カ月ぐらい後で知ったね。飛行機にやられればダメだということは、開戦当初日本が自ら実践したことだ。だから沈んだと聞いた時も、やむを得ないなと思ったよ。

 

若い記者のために解説すると、「開戦当初日本が自ら実践したこと」とは、41年12月8日(現地時間7日)のハワイ真珠湾攻撃と、同10日のマレー沖海戦を指す。

 

真珠湾攻撃では日本の海軍機が停泊中の戦艦アリゾナ(31,400トン)など戦艦4隻を含む多数の軍艦を撃沈・大破した。またマレー沖海戦は航行中のイギリス東洋艦隊の新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズ(35,000トン)と重巡洋艦レパルスを航空機攻撃で瞬く間に撃沈した。

 

◆大和に匹敵する武蔵の悲劇

 

武蔵は1944年10月24日、レイテ沖決戦に向かう途中で米航空機の攻撃に見舞われた。魚雷20本と直撃弾17発を受けて沈没、その直後に大爆発を起こして艦体は四散した。戦闘状況は大岡昇平著『レイテ戦記』にも詳しく紹介されている。

 

一方、大和は45年4月7日、沖縄に侵攻した米軍を撃滅する特攻作戦に出撃。やはり米航空機の攻撃を受けて鹿児島県枕崎沖約200キロの東シナ海に沈んだ。約3000人が亡くなった。吉田満著『戦艦大和の最期』は自身が体験した戦闘記録だが、戦争の本質を冷静に指摘した優れた文学作品でもある。

 

武蔵の悲劇性は、生き残った乗組員のその後の処遇で増幅される。全乗組員約2400人の半数以上の1376人が救助されたが、沈没情報は厳しく伏せられ、一部の乗組員は終戦まで離島に隔離された。また大半は陸兵としてフィリピン決戦に参加を余儀なくされ、多くがフィリピンの土となったのである。

 

古賀さんとのインタビューで、おやっと思ったのは最後の「やむを得ない」の一言だった。武蔵は起工式から完成まで4年5カ月もかかった。当時30代半ばの古賀さんが寝食を忘れ、たくさんの技師・工員たちが心血を注いで完成させた武蔵が、わずか2年2カ月後に撃沈されたことを、そんなに簡単な言葉で締めくくれるのか、と疑問が浮かんだ。

 

本音は「悲しかった」とか「悔しい思いが抜けきらなかった」ではなかったか。ただインタビューの時は緊張していて次の質問が続かず、1時間ほどの取材は、あっという間に終わってしまった。

 

◆本音を聞き損ねた悔しさ

 

あの時、古賀さんに真意を聞き損ねたことをずっと引きずっている。今ならすぐに「それは緒戦の勝利だけでなく、翌年6月のミッドウェー海戦敗北を知っていたからですか」とか、「撃沈はずいぶん昔の話ということなのですか」と聞いたと思う。

 

古賀さんは1903(明治36)年生まれ、25年に東京大学工学部船舶工学科を卒業して、すぐ同社(当時は三菱造船)に入社した優秀な造船技師だったから、急変した戦闘形態を知っていたはずだ。建造中からむなしさを抱えていたのではなかっただろうか。

 

一方、取材は古賀さんが76歳の時で、武蔵が撃沈されたのは41歳の時だから実に35年前の出来事である。それほど年月がたっていれば撃沈の悲劇は少し薄らいだ記憶になっていてもおかしくはない。淡々と「やむを得ない」と語ったのは時間(年齢)が語らせたのかもしれない。

 

古賀さんは戦後、三菱重工業の経営を担うことになった。71年12月に社長に就任したが、それは牧田與一郎社長が急逝したためで、古賀さんは牧田さんの残りの任期1年半を務めた後、73年5月、あっさりと会長になった。見事な引き際だった。

 

日本の造船業は1950年代半ばから度々世界一の座を占めた。古賀さんは造船業界のリーダーとして活躍し、国は藍綬褒章や勲一等瑞宝章、賜杯銀杯四号を贈り長年の功績を称えた。77年相談役へ退いた後、92年12月、89歳でこの世を去った。

 

現在、日本の造船業は中国や韓国などとの価格競争に勝てず、各社は合併や提携を通じて必死に生き残り策を模索中だ。三菱重工業も大型客船事業からの撤退や分社化などで事業全体をスリム化する計画を進めている。かつて築き上げた造船王国の一翼を担った古賀さんが存命ならば、現在の造船業をどう見るだろうか。やはり静かに「やむを得ない」と語るのだろうか。

 

おおさわ・さとし

1969年日刊工業新聞社入社 86年中日新聞東京本社(東京新聞)へ 経済記者として関係省庁と 日銀のほか鉄鋼 建設 金融 商社などを担当 浦和(現さいたま)支局長 総務局自動車部長 同総務部長 論説委員を経て 2012年退社 中日新聞社友 著書に『三菱重工業』『黄色いロボット』『甦る被災鉄道』など

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