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広東:支局は外電傍受基地 現地召集され終戦に(枝松 茂之)1995年8月

昭和十八年の三月半ば、広東支局長として赴任した。その直後に、山本連合艦隊司令長官の戦死が公表された。戦局は次第に重苦しい段階に入りつつあった。

 

広東支局はすでにニュースソースとしての意味は全くなく、南方作戦地域との連絡、無電の中継が主たる仕事、各社とも同じような条件下にあった。

 

支局員の数も減らしてしまった。ただし、東京でも同じことをやっていたのだが、広東は香港英海軍にいた中国人無電オペレーターを使って外電を傍受し、これを東京に転電した。このいわゆる”デマ放送”はすこぶる正確で、一週間から十日遅れて大本営がこれを確認するのが常であった。

 

十九年に入ると中国人オペレーターがやめてしまった。日本軍が敗退していく状況を毎夜キャッチし続けたのだから無理もなかった。

 

ところで十九年六月、私は現地召集を受けて一平卒になってしまった。この時、毎日だけが上海、漢口、広東の三支局長をやられたのは”竹槍事件”で激怒した東条の懲罰召集に違いないと本社でも考えたそうだ。

 

召集されたものの、私は南支軍司令部の一隅にある軍報道部に配属になった。松竹映画の監督、高峰三枝子を売り出した渋谷実一等兵、中央公論の出版部長だった堺誠一郎軍曹たちが相次いで野戦部隊から報道部に入ってきた。

 

部長は程度の悪い中佐だったが、この男ゴマスリはうまいとみえ、参謀長以下のスタッフを報道部に集め押収エロ映画の会を催したりしていた。映画会場となる物置の前に執銃の衛兵を立て、その一人に大監督渋谷実君などがいたのだから、悲しくも滑稽な風景であった。

 

駐留多年にわたる南支軍の堕落、腐敗ぶりはひどいものであった。参謀、主計将校、兵隊はそれぞれに物資の横流し、料理屋の女の奪い合いを続け、街頭には軍用品などが溢れていた。”これでは負けるのは仕方がない”と感じつつ、暗い毎日を送った。

 

報道部での仕事は在支米空軍(桂林)の士気を阻喪させるための原稿作りと、やはり傍受の仕事をやった。程度の悪い参謀の方針通りやるのだから、放送の方は”お笑い”程度だったが、嘱託として来ていた堀内敬三氏が割合まじめに英訳、二世の兵隊に読ませていた。

 

ドイツの特派員が一人いた。本国からの送金がなくなり参っているのを、軍に頼んで嘱託にしてもらった。この男はもともとドイツ最大の化学会社(爆薬その他軍需物資)にいたので、その方面の知識はあった。原爆投下の日の彼の脅え切った表情が忘れられない。

 

彼が一生懸命説明したのは、この爆弾を使われた以上もはや戦争継続は不可能であること、これは明らかに米国のソ連に対するブラッフであるということであった。

 

このニュースを翻訳して情報参謀に知らせた。「他にもらすな、ブッタ斬るぞ」とわけも分からず強がって見せた。

 

夏の暑い日、終戦の日が来た。総領事館で終戦の放送をきいたが、余り感慨はなかった。米国ラジオは十日ごろから、”日本ポツダム宣言受諾、降伏せり”と毎日のように流していたから。

 

現地召集組は召集解除で解散、私は支局に帰ってみたが、もう誰もいなかった。張発奎の新四軍が武装解除に進駐して来た。民間人およそ三千人は長州島の集中営(抑留キャンプ)に集められた。私は堺、渋谷君たちと一緒にキャンプに入った。それから約七カ月の俘虜生活が続くのであった。

 

(えだまつ・しげゆき 当時毎日新聞広東支局長)

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