ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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回顧的ジャーナリスト私論(藤原 作弥)2010年1月

私が新聞記者になったのは、同じ新聞記者だった祖父の影響による。祖父の悲想庵・藤原相之助は昭和初期まで仙台の河北新報の主筆として、政治評論、民間伝承、歴史物語、小説などに健筆をふるっていた。祖父はその後、歴史学者として晩年を過ごした。

 

文化人類学者の父もジャーナリストのような取材・調査の仕事をしていた。言語学を学んだ父は「ウラル・アルタイ語族のシャーマニズム」という研究テーマに関心を持ち、東北の恐山や出羽三山のイタコ(巫女)や山伏の呪文・祭文など日本のシャーマン言語を研究したのち、日本語と同じアルタイ語系民族の言語を調べるため朝鮮半島や内モンゴルにまでフィールドワークの足を伸ばした。

 

一家6人は昭和21年秋に日本に引き揚げてくるまで満蒙地方をさまよい難民生活を送った。長じて私が新聞記者とノンフィクション作家との二足の草鞋をはくようになったのは、祖父と父から受け継いだ好奇心と放浪癖のDNAによる。放浪癖が高じて、一時、日銀に寄り道するというハプニングもあったが――。

 

冒頭に、私が新聞記者になったのは祖父の影響による――と書いたが、祖父からジャーナリズム論の手ほどきを受けたわけではない。最晩年の祖父は万巻の書に囲まれた書斎のベッドで原稿を書いていたが、私の役目は朝晩その祖父に食事を運び身の回りの世話や使い走りをすることだった。尊敬する祖父の原稿を書く姿――。それだけで私は新聞記者に憧れた。

 

祖父は私たちの一家が満州から引き揚げてきた翌年の昭和22年の秋に死んだので、私が祖父と暮らしたのはわずか1年に過ぎない。

 

祖父は危篤に陥ってからも意識がはっきりしていた。医者の診察が終わると色紙と万年筆を求め、ゆっくりとペンを走らせた。それは、我が魂は今や肉体を離れ故郷の山へ飛翔する――という意味の和歌と漢詩だった。書き終わると家族一人一人に握手を求め、最後に妻である祖母の手を握ると、自ら両手で毛布を引き上げて顔を覆った。脈をとった医者が「ご臨終です」と頭を下げた。荘厳な祖父の死に私は子ども心ながら感動し、新聞記者になろうと決意したのだった。

 

◆「財政」はバルザックの世界

 

私が大学を卒業したのは昭和37年。新聞・放送・出版の各メディアを就活したが、合格したのは通信社だけ。しかも、経済部配属と決まったときにはがっかりした。私が志望した①文化部、②外信部、③政治部――の優先順位は容れられず、最も不得手な分野に回されてしまった。一時は退社まで決意した。しかし、恋人の両親から正式結婚の条件は「就職」と申し渡されていたので、退社はせずしばらく様子を見ることにした。

 

入社1年目の仕事は単調なデスク補助の電話取り。先輩記者が出先から電話で吹き込んでくる記事を原稿用紙に写し取ったり、午前、午後の外為相場やコール市場取引の数字を取材したり・・・の灰色のルーティーンワークばかり。だが、これも結婚のため、と自らに言い聞かせて、意に染まぬ仕事を極めて機械的にこなしていった。初めは無味乾燥で退屈な数字の速報ばかりで嫌気がさした。

 

なぜ定年まで36年間も経済記者を続けることができたかといえば、最初に配属されたのが大蔵省(当時)の記者クラブだったからだと思う。昭和40年を境にした4年間、OECD(経済協力開発機構)加盟、IMF(国際通貨基金)8条国移行、IMF世銀総会やオリンピックの東京開催・・・と日本の高度成長と国際化を象徴する出来事が次々に起こった。

 

取材するうちに財政は、経済と政治、経済と社会、経済と文化、経済と外交・・・と人間社会におけるあらゆる営為との接点であることがわかり、予算と税制を取材することは経済を通じて”人間”ドラマを取材することと感得した。元文学青年にとっては、バルザックの作品を読むような興味が次第に沸いてきた。

 

しかも、大蔵大臣が前半は田中角栄、後半は福田赳夫という、いずれも後に首相の座を射止めたユニークな大物パーソナリティー。ネタには事欠かなかった。かくして新聞記者稼業は私にとって、”三日やったら辞められない”商売になってしまった。

 

通信記者の生命の第一は速報性。放送や新聞に比べ”足が速い”ので、スクープの快感は何度も味わったが、それだけではないことを知ったのはワシントン特派員時代である。ワシントンでは、経済だけでなく政治、外交、軍事、社会・・・とあらゆるジャンルをカバーしたこともよい経験になった。

 

折から日米繊維戦争が全面的な経済戦争に拡大した。それに政治的な沖縄返還交渉が絡み、<糸>と<縄>の結び目がほぐれない事態が発生した。ドラマはやがて金ドル交換停止、輸入課徴金発動などの緊急経済対策や日本頭越しの米中接近などのニクソン・ショックでクライマックスへ――。記者冥利に尽きる4年間の取材体験だった。

 

当時、日本のマスメディア社会では通信社の地位が低かったが、アメリカでは尊敬され優遇されていた。また、テレビジャーナリズムの影響力の大きいことを知ったのも、ベトナム戦争に悩み、暗殺事件の暗い世相のアメリカ社会を取材した報道活動を通してである。

 

◆「達人」はメディアを選ばず

 

その後帰国して、”短い原稿”の第一現場取材を離れ、編集委員や解説委員長といった”長い原稿”の仕事をするかたわら、コラム、エッセーを書くようになったが、気がつけばジャーナリストとノンフィクション作家の二足の草鞋をはいていた。テレビやラジオのコメンテーターを務めたこともある。このように、あらゆるメディア媒体の仕事ができたのも通信社からキャリアをスタートさせたおかげ、と今では感謝している。

 

以上、ささやかな体験を述べたのは自慢話が本意ではない。ジャーナリストたるもの、いかなるメディア形態においても、森羅万象いかなるテーマについても、読者や視聴者などニュースの受け手に、分かりやすく説得力を持って情報伝達する資質を磨くべき――という私が得た教訓を、今後ジャーナリストを志す後輩や新人諸君に強調したかったからである。「ニュースの達人」は「料理の達人」と似ている。調理名人の板前が包丁一本でいかなる料理でも作り上げるように、円熟したジャーナリストはペン一本でどんな原稿でも書けるし、いかなるメディアでもこなせるはずである。

 

例えば、私が出会ったアメリカのジャーナリストでは、ケネディ大統領暗殺の速報でピュリツァー賞を受賞したUPI通信のメリマン・スミス記者。首都ワシントンの四季の風物を描いたエッセー文芸で、もう一つのピュリツァー賞を受賞している。

 

日本でも多くの尊敬するジャーナリストがいるが、例えば米紙東京特派員からテレビキャスターに転じ、大宅ノンフィクション賞を受賞した評論家の櫻井よしこさん。また新聞記者、雑誌編集長を経てテレビキャスターの一つの典型を示した筑紫哲也氏。古巣の時事通信では私の上司でワシントン支局長だった田久保忠衛氏や屋山太郎氏。ご両人とも内政担当の特ダネ記者から海外特派員へ。さらには大学教授や評論家へ、と鮮やかな転身を何度も遂げた。

 

私自身はいまだに鉛筆と消しゴムのアナクロ時代のオールド・ジャーナリストだが、活字・映像・IT通信などあらゆる情報媒体が融合するメディア・ミックスの今日こそ、総合的な資質を身につけた真のジャーナリストが望まれる。

 

ふじわら・さくや▼1937年仙台市に生まれる 旧満州安東(現丹東)で終戦を迎え 46年11月帰国 62年東京外語大フランス学科卒後 時事通信入社 オタワ ワシントン特派員 編集委員 解説委員長 98年から03年まで日銀副総裁 その後 日立総合計画研究所社長 07年退社 著書に『聖母病院の友人たち』(日本エッセイストクラブ賞受賞)『李香蘭・私の半生』(山口淑子との共著)『死を看取るこころ』『満州の風』『素顔の日銀副総裁日記』ほか多数 89年3月から98年4月まで企画委員を務める 現在 功労会員

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