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戦場からメリークリスマス ―チャウシェスク政権崩壊―(伊藤 千尋)2016年12月

もう四半世紀を過ぎたが、市街戦の銃撃音、街を走る戦車の轟音を鮮明に覚えている。1989年12月の東欧ルーマニア。チャウシェスク政権が崩壊したというラジオのニュースを聞いたのは、朝日新聞「AERA」の記者として取材中のチェコだ。すぐに国際列車に乗り9時間後、ルーマニア国境に到着した。

 

ハンガリーからルーマニアに入国するときは身構えた。国境が閉鎖され、列車で入国する外国人は強制的に降ろされたというニュースを聞いたばかりだ。しかも観光ビザは用意したが、報道ビザはない。パスポートやカメラ、大量のフィルムを見れば報道関係であることは一目瞭然だ。ここは方便で乗り切るしかない。

 

係官に「旅行会社の社員で観光がてら撮影する旅だ」と偽ると「社長か」と聞かれた。平社員といえば拒否される雰囲気だ。かといって社長という年でもない。「副社長だ」と答えたらスタンプを押してくれた。

 

国境を越えたのは午前1時だ。とたんに暖房が切れた。明け方、寒さで目を覚ますと窓の外は真っ白な凍土だ。駅のホームには兵士が立ち、自動小銃を水平に構えて引き金に指をかけている。だが、別の駅では向かいの列車の窓から若者が私に向けてVサインを突き出し「自由ルーマニア、永遠なれ」と声を上げた。

 

◆「一番激しい所へ」 銃撃戦の中へ飛び出す

 

首都に着いたのは出発から21時間半後の正午前だ。ホームには紙が散乱していた。ちぎられた『チャウシェスク演説集』だ。中年の男が開いた本を靴で踏みつけ引き裂いた。チャウシェスクの肖像画も裂かれて、くずかごに転がっている。

 

あちこちに人の輪ができて議論している。私は学生時代にルーマニア語のゼミをとって通訳をしたこともある。輪に入って会話を聞いていると、内戦という言葉を耳にした。驚いて聞くと「知らないのか」と問われた。駅の外に出ると、革命派と独裁派が市街戦を展開していた。

 

タン、タンという小銃の音、激しい機関銃、鈍い迫撃砲の発射音も響く。大変な事態に遭遇したことを悟った。車を探すと、駅前に車を停めていた大学の教授が提供してくれた。どこに行きたいか問われ「銃撃戦が一番激しい所へ」と答えた。

 

5分もせずに目の前の横道から戦車が2両出てきた。銃座の兵士は革命派の印の三色旗の腕章をしている。私に気づくと、Vサインした。話を聞こうと車を降りて走ると、そばのビルの窓から銃撃された。独裁派の兵士だ。足元を銃弾が跳ねる。車の陰に滑り込んだ。戦車がビルに発砲し、目の前で戦闘が始まった。

 

中南米で内戦の最前線は何度も経験したが、市街戦は初めてだ。石造りの建物に跳ねた銃弾が四方八方から飛んでくる。そんな危険な街路に群衆がいて、殺気立った顔で私の車を止め「トランクを開けろ」と叫んだ。独裁派の兵士に銃弾を運ぶ車を検問していると言う。革命のため市民が自発的に奮い立ったのだ。

 

大通りの向こうで独裁派の兵士が市民を銃撃していた。行けば30行ほどの原稿になりそうだ。だが、通りの両側で撃ち合っており、銃弾が飛び交う。弾に当たって死ぬかと思うと一歩が踏み出せない。頭は向こうに行きたいが、足はすくんだ。

 

そのときだ。傍らにいたルーマニア人の若者が「ブシドー」と叫んだ。街を走り回る私に「この革命が世界に知られるよう手伝いたい」と助手になってくれた予備校生だ。黒澤映画で武士道を知ったという。こう言われると日本の男としてためらっていられない。運を天に任せて走り出した。耳元でヒュンヒュン音がした。

 

泊まったホテルの壁は銃痕だらけ、レストランは砲撃で黒焦げだ。国際電話は通じない。テレックスで原稿を送ろうとしたが、配列がフランス語形式で文字を一つ一つ探すのがもどかしい。キーをたたくうちに窓の外から機関銃の銃撃を受けた。

 

頭の上の窓ガラスが飛び散る。逃げようとする係の女性に「これを東京に送ってから逃げてくれ」と叫ぶ。腹を据え、原稿のあとに「戦場からメリークリスマス。まさかの時は妻子を頼む」と行政電を加えた。

 

午前4時に枕元の電話が鳴った。日本大使館からだ。「独裁派が勢いを盛り返して外国人は皆殺しにされる情勢となった。大使館員と邦人は国外に退去する。あなたも大使館に来てくれ」と言う。私はせっかく入ったのだから留まると言った。

 

その館員は説得のためにわざわざホテルに来てくれた。情報の出所はアメリカ大使館だという。つまり確度が高い。米海兵隊が先導して米国と日本の車列を作り、全速力で隣のブルガリアに走るという。海兵隊が逃げると聞いて戦慄した。

 

そのとき、私の1日後に入国した若い放送局記者が「こんな所で死にたくない。私は逃げます」と言った。私の脳は反発した。「こんな所」というが、ここは世界が注目する地で今は歴史の転換点だ。記者として一生に一度遭遇するかどうかの機会である。

 

残るか逃げるかを即座に決めなければならない状況にさらされた。そのとき頭に浮かんだのはジャーナリズム魂というきれいごとではない。自分は何者か、という自身への問いだ。ここで逃げたら命は助かっても今後はジャーナリストとして胸を張って生きてはいけないと思った。死よりも、その方が怖かった。「僕は残ります」という言葉が口をついた。

 

しかし、一人になると心底怖くなった。これで私も死ぬかもしれないと本気で思った。左足が膝元からガクガク震えた。両手で押さえても長い間、止まらなかった。

 

翌日、ホテルのロビーに置かれたテレビは一日中、チャウシェスクが簡易裁判で銃殺された映像を流した。国際世論は独裁者に正式な裁判をすべきだと言ったが、そんな悠長な情勢ではなかった。独裁者を処刑したから独裁派は守るものを失って瓦解したのだ。処刑がなかったら多くの市民の命が失われただろう。私を含めて。現実の混乱の中にいると、現場を知らない論評がしらじらしい。

 

◆独裁化した背景探る 同じことは今の世も?

 

革命が勝利に終わったあと、疑問に思っていたことを聞いて回った。かつて米中接近の橋渡しをするなど開明派と言われたチャウシェスクがなぜ独裁者になったのか、だ。

 

きっかけは「プラハの春」のチェコにソ連が侵攻したことだった。チャウシェスクは、チェコの次はルーマニアが標的になると警戒した。宮廷革命を起こさせないためソ連派の幹部を切った。周囲にはイエスマンしか残らなくなり、チャウシェスクの言動全てが称賛されるようになって急速に独裁化したという。

 

よかれと思ってしたために独裁化を招き、結局はわが身も国も滅ぼしてしまう。今もありそうだ。隣の中国では腐敗をただす大義の下に権力を集中した結果、為政者は独裁への道をたどっているように見える。わが国のリーダーは大義さえなく、自ら党総裁の3選を決めた。

 

「ブシドー」と叫んだクリスチャン君に身の上を聞くと、彼は「そういえば僕は病人だった」と笑い出した。大病院で精密検査するために地方から出てきたのだった。彼に謝礼の金を渡そうとしたが受け取らない。腕時計をはずして記念にしてもらった。今も持っているだろうか。

 

この稿を書くにあたって行政電が伝わったのか、27年目にして初めて妻に聞いた。社はちゃんと伝えてくれていた。「戦場からメリークリスマスという文面を聞いて、生きて帰ると確信した」と妻は言った。

 

いとう・ちひろ
1949年山口県生まれ 74年朝日新聞入社 サンパウロ バルセロナ ロサンゼルスの各支局長を歴任 2014年退社 現在 国際問題のフリージャーナリスト NGO「コスタリカ平和の会」共同代表 主著に『燃える中南米』『反米大陸』『一人の声が世界を変えた』『キューバ―超大国を屈服させたラテンの魂!』『観光コースでないベトナム』『今こそ問われる市民意識』『地球を活かす―市民が創る自然エネルギー』『闘う新聞―ハンギョレの12年』など

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