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小さなまちの大きな町長 地域おこしの先駆け 島本虎三さん(石川 徹)2016年11月

小池百合子東京都知事をはじめ国会議員から知事への転身は珍しくない。区長や政令市長に転じた人もいる。だが、小さなまちの首長へとなると、国会議員の妙なプライドからか、ほとんど例はない。

 

小樽市に近い果樹の産地、後志管内仁木町(現在の人口約3400人)で、保守系町民に担がれて1979年から2期8年間、町長を務めた島本虎三さん、通称「島虎さん」は、直前まで5期16年間、社会党の衆院議員という異端の人だった。

 

私は駆け出し記者としてニッカウヰスキー工場の所在地で知られる余市町の支局に赴任した83年から3年間、仁木町に通い詰めた。

 

国会での島虎さんは一貫して公害問題を追及し、「公害の島虎」で鳴らした、と聞いていた。だが、町長室での島虎さんは全然偉ぶることもなく、「もっと仁木の記事を書いてくれよ」が口癖だった。

 

そんな中で、今も記憶に残る思い出がある。初めて彼の町政運営を批判した時のことだ。

 

最近でこそ、行政と民間との連携は珍しくはないが、島虎さんは私が赴任した年、岐阜県で活動していた半農半工の若者の職人集団を招き、西武流通グループと町との3者で協定を結んだ。農産物の加工・流通をはじめ経済、文化活動を一体にした新しい形の地域おこし、という触れ込みだった。

 

町長室には若者集団が当時製作していた、シェーカー様式のロッキングチェアを置くほどの肩の入れよう。町民からは当然、彼らへのやっかみの声も上がった。

 

彼らが仁木町へ移住してくる前に活動をしていた岐阜県清見村(現・高山市)に取材に行くと、役場幹部は「あいさつもなく去っていった」と素っ気なかった。清見村役場の声を基に、3者協定による町づくりにくぎを刺す記事を書くと、若者集団からは抗議が来た。だが島虎さんの反応は違った。

 

「長い目で見てやってくれや」

 

彼は役場職員からかんしゃくを落とすことで恐れられてもいただけに、掲載後、初めて会った時の優しい声には、拍子抜けした。

 

若気の至りで書いた記事でも、事実に基づいているなら受け入れようという度量があった。

 

現在の地域おこし協力隊の先駆けともいえる若者集団はその後、仁木町を去り、隣接する赤井川村に本拠地を移した。町の人口も、島虎町長時代より1500人減った。だが、西武流通グループとの契約で栽培が始まったブルーベリーは、サクランボ、ブドウに次ぐ町の主要産品となった。若者集団に触発された仁木の若者たちが始めた「さくらんぼフェスティバル」は今、初夏の道央圏の名物行事である。

 

島虎さんは町長を退任した翌88年、第4次全国総合開発計画を審議する国土審議会の特別委員に、当時の竹下登首相から任命された。島虎さんの活動に共感した伊東正義自民党総務会長(当時)の推薦だった。島虎さんは翌89年、75歳で亡くなったが、伊東氏は北海道新聞に「敬愛していた人だけに非常に惜しい人を亡くした」とのコメントを寄せている。

 

「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」とのことわざがある。島虎さんが名も功績も残せたのは、政治家としての格とか立場とかを超えて住民の課題に真正面から立ち向かったからだ、と今になって思う。

 

(いしかわ・とおる 北海道新聞社東京編集局長)

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