ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


書いた話/書かなかった話 の記事一覧に戻る

「政治を科学する」を追求し続けた日々 中国で実現した初の「民意測験」(宇治 敏彦)2016年10月

今年は中国で文化大革命が起きてから満五十年。文革を主導した江青夫人など「四人組」が一九七六年に逮捕され、同時に近代化路線が始まった。鄧小平副首相(当時)の来日も実現した七八年秋、尾崎実編集局長から「中国近代化の実態とはどんなものか、庶民目線で取材し連載を書いてくれ」との指示が政治記者の私のところへ下りてきた。

 

本音を引き出すのが難しい革命中国の人々から、どうしたら腹を割った話や意見を聞けるだろうか。苦慮した末に「中国を科学する」手法で市民対象に意識調査を実施してみようとの案が浮かんだ。早速、安藤彦太郎早大教授(中国経済学)ら何人かの識者に相談に乗ってもらった。

 

「それは成功しないよ。『日中平和友好条約を歓迎するか、しないか』と聞けば、百人中百人が『歓迎』と答えるから、調査自体が無意味だ」。安藤教授は即座に切り捨てた。

 

だが私は、チャレンジしてみる価値があると思った。七四年に宏池会(自民党大平派)の議員たちと三週間、中国を旅した時、皆一様に見える中国人にも個々に「心の隙間」があることを感じたからだ。女性たちは人民服の裏地でおしゃれをしていた。「階級なき軍隊」といわれた人民解放軍で筆者が「同じ軍服を着ていて上官はどうやって見分けるのか」と聞くと、二十二歳の兵士は答えた。「上着のポケットの数が違う。幹部は四つだが、兵士は二つ」(この話は帰国後、記事にした。後年、訪中した作家の曽野綾子氏が「マスコミは、兵士のポケットの差さえも報道しない中国べったり姿勢」と批判したが、そんなことはありません。既に報道していますよ、曽野さん)

 

もう一つ、上海市内の薬局で産児制限用にコンドームが無料配布されているのを見つけた。「一人一回五包まで」と表示され、「大」「中」「小」のサイズに区分けされていた。じゃあ私ももらってみるか、と中国語が達者な故加藤紘一自民党元幹事長を通訳に店員と交渉した。すると「北朝鮮、北ベトナム(当時)、アルバニアの方は無料だが、それ以外の外国人からは一包二分(当時で約三円)もらう」という。親中派かどうかで差をつける。この辺の感覚にも私は、中国人意識の一端を見た。

 

そんな体験から意識調査と対面取材を並行して行えば、庶民感覚を多少は引き出せるのではと思った。「尊敬する人物は?」「生き甲斐を感じる時は?」「解放前と現在とで特に変わった点は?」「中国人、日本人の特徴は?」「復活した女性のパーマネント姿をどう思う?」など十三問の質問を用意して北京へ旅立った。

 

◆百人と直接面接

 

中国でも難問が待ち構えていた。外交部新聞司(外務省報道室)が難色を示した。「短時日の取材で多くの市民の意見を聞くのに世論調査は有効な手段で、日本では多用されている」と新聞司の王珍副司長(韓念竜外務次官夫人)を必死で説得した。その結果、「北京大学で少人数の学生対象なら民意測験を許しましょう」と許可が出た。世論調査は中国語では「民意測験」(ミンイスゥイェン)というのだと初めて知った。

 

北京大学では学生から大歓迎されたが、管理者側は「民意測験は前例がない」と渋い顔だった。それでも同大学を皮切りに十八日間かけて北京、西安、洛陽、南京、上海の五都市とその近郊の計十五地点で百人の中国人に直接面接し、回答を記入してもらった。

 

「日中条約を歓迎するか」については、安藤教授が予言したように一〇〇%イエスだったが、その他の質問では「尊敬する人物」に延べ三百八十七人の名前が挙がり、その中には田中角栄(五人)、福田赳夫(二人)、大平正芳(一人)各氏の名前も含まれるなど、想像以上に多様な意見が拾えた。パーマネントの復活に「ぜいたく」との批判はゼロで、「個人の自由」(九三%)「身だしなみとして当然」(二四%、複数回答)など、文革の再来はご免という庶民の本音が強く感じられた(調査結果の詳報は一九七八年十二月十一日の東京新聞、中日新聞朝刊などに掲載)。

 

「香港のマスコミが『世界で初の中国世論調査』と報道した」と浅川健次香港特派員から連絡があった。意識調査と並行して実施した聞き取りでも「日本の予備校に学びたい」「トヨタが手本」といった日本羨望論、さらには女性たちの結婚相手への願望として「一屋全、二老昇天(家具をいっぱい持ち、両親が他界している男性)」といった本音も引き出せた。

 

◆「離見の見」のこころで

 

私が新聞記者になったのは六〇年安保の最中で翌年、政治部に配属された。池番(池田勇人首相の追っかけ)をやりながら憲法調査会を担当し、夜は三木武夫科学技術庁長官(当時)宅にお邪魔する日々が続いた。三木氏から「君のような若い記者は派閥の渦に巻き込まれずに政策を勉強したまえ」とお説教され、自民党内にも「まともな政治家がいる」と思った(次第に「バルカン三木」ぶりも知ることになるのだが)。

 

当時も今も「政治記者には派閥記者と政策記者の二タイプがある」といわれる。私がめざしたのは、そのどちらでもない「政治を科学する」型記者であった。派閥記者は政治家に密着することで特ダネを得ようとするが、逆に取り込まれて記者の立場を忘れてしまうケースもある。室町期の能役者・世阿弥が「離見の見」という名言を残している。能を演じる自分を観客の目線で見直して演技を高めるという意味だ。美空ひばりが「悲しい酒」を歌う時に涙を流した姿に似ている。だが本当に泣いてしまえば歌は歌えない。そのギリギリのところで踏みとどまれるかどうか。記者も政治家に接近し過ぎてジャーナリストの一線を超えてしまったら失格だ。

 

筆者が一九六三年に「政治を科学する」という連載企画に取り組んだのは、党利党略、派閥意識、政治的思惑といった「不純物」を除いた観点から客観的な政治分析ができないかと思ったからだった。

 

当時の行政管理庁に清正清という名前の傑物官僚がいた。官庁の部屋について「偉い人は広い部屋でぬくぬく、ヒラは大部屋であくせくというのはいかがか」と、行政能率班長に昇進した時、部屋の入り口に自ら座り、職員は日当たりの良い窓側にと机の配置を変えてしまった。当時の庁舎面積基準では一般職と大臣では部屋内の労働空間の差は一対三〇だった。清正氏の心意気に共感して連載企画でも役所の机配置を「科学」し、部屋の入り口近くに座るトップに拍手を送った。ところが清正氏が異動になると同時に、部屋のレイアウトは元に戻ってしまった。染み付いた官僚体質と慣行の打破は容易ではないと痛感した。

 

内閣の憲法調査会における改憲・護憲論議が山場を迎えた一九六二年秋には、メンバーに自筆で回答を寄せてもらう調査を実施した。二十七人の委員からの回答を紙面化した。手元に残っている原文を読み返してみると「改憲は国民の盛り上がる支持なしにはやれないし、やるべきでない。衆参両院で改憲勢力が三分の二を占めたというだけで改憲などできるものではない。憲法に多少の不備や欠陥があっても、それで国が亡んだ例はないが、改正を強引に強行することによって国内を分裂状態に導いた例はある」(原文のまま)といった矢部貞治・元拓大総長(部分的改憲論者)の意見などは今日にも通じる点があろう。

 

「離見の見」「政治を科学する」の精神を忘れずにジャーナリスト人生を全うしたいものだ。

 

うじ・としひこ
1937年生まれ 旧東京新聞を経て67年中日新聞入社 政治部次長 経済部長 論説主幹 取締役 専務取締役(東京新聞代表)を経て現在 相談役 ほかにフォーリン・プレスセンター評議員など 著書に『政の言葉から読み解く戦後70年』『実写 1955年体制』『中国問診』など多数
自作版画集『木版画 萬葉秀歌』『版画でたどる万葉さんぽ』も出版している

ページのTOPへ