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内戦下のレバノンに暮らして「むなしく消えた命」見つめる(荒田 茂夫)2016年9月

「アラブは、はかない世界である。多くの命がむなしく失われていく」――ヨルダンのフセイン前国王は自伝にそう記したという。中東に暮らして最も心にしみた言葉である。

 

内戦下のレバノン・ベイルートに1980年4月から3年半、朝日新聞の特派員として駐在した。

 

内戦以外にもイラン・イラク戦争や、イスラエル軍によるイラク原子炉爆撃(81年)などの衝撃的な出来事を現場で取材する機会を得た。それぞれに思い出は尽きないが、なんといっても、常に「死」と隣り合わせだった内戦下の暮らしが強く印象に残っている。

 

特に、82年9月、ベイルート近郊のサブラ・シャティーラ難民キャンプで起きたパレスチナ難民虐殺の惨状は、今でも忘れることができない。遺体の多くは、ゴミ捨て場として使われていたキャンプ外れの空き地に埋められたのだが、10年以上後に、その場所を訪れた私は、「埋葬地」の上に家が建ち、住民が何事もなかったように生活している姿を見て、胸が締め付けられた。

 

◆あふれる武器、絶えぬ戦火

 

私の手のひらにのった金属片の写真を見ていただきたい。自宅を兼ねた支局に撃ち込まれた銃弾や、近くに落ちていた砲弾の破片である。支局は、報道陣の多くが拠点を構えた西ベイルート(イスラム教徒支配地区)の中では比較的安全な場所にあったが、それでも度々、弾が飛び込み、爆風で窓ガラスが吹き飛んだ。

 

当時のレバノンでは、さまざまな戦闘や爆弾テロが日常的に起きていた。というのも、いったん内戦が始まると、武器商人や、戦争で生活を支える民兵、麻薬マフィアなど「平和になると困る人々」が増殖し、治安の悪循環が起こる。さらに、あふれる武器は陸続きでつながる周辺諸国にとっても大きな脅威となる。それは昔も今も変わらない。

 

内戦下のレバノンで共に活動した「戦争特派員」の中で、忘れることができない一人が、米ABC放送のカメラマンだった平敷安常氏である。ベトナム戦争をサイゴン陥落まで取材した〝古強者〟で、私はレバノン南部の前線で出会った。

 

『キャパになれなかったカメラマン』(講談社)で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した平敷氏は、続編『アイウィットネス』(同)に次のように記している。

 

「1982年6月6日に始まったイスラエル軍のベイルート侵攻の際、(中略)砲弾が飛び交う西ベイルートの中で、家族と共に戦争を経験し目撃し、リポートしたのは朝日新聞の荒田茂夫特派員や共同通信の佐々木伸特派員とその家族だった。(中略)荒田特派員とは、レバノンの最前線でも何度か顔を合わせていた。戦場カメラマンが行くような危険な区域でも行くので驚いた。彼の方も、私が勇敢で戦争を撮るのが上手いという印象をもったようだ」

 

当時、平敷氏からイスラエル・レバノン国境近くにある十字軍時代の砦をめぐる攻防戦撮影の模様を聞いたことがある。足がすくむような話で、「ベトナム戦争経験者は違う」と感心したことを覚えている。

 

◆ネット社会が変えた戦争取材

 

われわれが、内戦下のレバノンにとどまって報道し続けることができたのはなぜだろうか。今、考えると無謀な行為だったと思われるかもしれないが、メディアを取り巻く環境が現在とは大きく異なっていた、そこが重要なポイントだと思う。シリアなどでジャーナリストが次々、拉致・誘拐される現在の状況と当時を比べると隔世の感がある。

 

80年代は、インターネットやSNSが普及する前で、情報発信は新聞・テレビといったマスメディアがほぼ「独占」していた。戦闘する各派はメディアを通じて初めて彼らの主張を世界に伝えることができた。戦争当事者にとって、われわれは利用価値があったのだ。

 

しかし、誰もがどこからでも情報を発信できるネット時代を迎えた今、「イスラム国」(IS)などの武装組織は、自らの主張を好きな時に好きなように流すことができる。このため、彼らにとって西側のメディアは邪魔な存在でしかなくなったのではないだろうか。ネット社会が、戦争取材を一変させたのである。

 

◆「食事事件」と安保法制

 

2016年3月、安全保障関連法が施行された。これにより、自衛隊の中東派遣が、これまでよりも身近なものになるという。一連の報道を読んで私の脳裏に浮かんだのは、ベイルート時代に取材した米海兵隊の「食事事件」であった。取材メモから記憶をよみがえらせると…。

 

「地元のハンバーガー会社が海兵隊慰問のため、三千食分を寄付、現在ベイルートに空輸中。ハンバーガーを食べた兵士の反応をまとめ、長行の原稿送れ」。そんなテレックスが朝日新聞ベイルート支局に届いたのは、国際監視軍に参加する米海兵隊が本格的なレバノン駐留を始めた直後、1982年10月のこと。原稿を依頼してきたのは米オハイオ州の地方紙で、宛先は、当時支局の助手だった米国人フリージャーナリストであった。

 

この時期、米海兵隊を含むレバノンの国際監視軍は、その後二度と訪れぬ「つかの間の平和」を楽しんでいた。そんな中で最大の話題が、「食事事件」だったのである。

 

イスラエル軍のレバノン侵攻が一段落して、暇を持て余していた百人を超える米国の報道陣は一斉にこの〝事件〟に飛びついた。「フランス軍、イタリア軍はまず台所を造り、三度三度温かい食事をしています。どうです、仏軍のこの豪華なメニュー。スープに始まり、サラダ、肉そしてデザート。しかるに、わが海兵隊は三食とも缶詰で、同情を集めています」

 

米メディアがこぞって報道したため、政府から食事改善の指示が出される騒ぎに発展した。ハンバーガーの差し入れも、こうした大報道が生んだ「成果」の一つであった。

 

ハンバーガー騒動で分かるように当時、派兵を命じたレーガン大統領も、レバノンに派遣された海兵隊自身も、事態を楽観視していた。

 

この時点で監視軍の死者が1年間に350人に達することを予想した者はいなかった。なぜなら、当初、同軍の主な任務は中立的な平和維持軍として、ベイルートから撤退するイスラエル軍の動きを監視することにあり、危険は少ないとみられていたからだ。

 

◆今日の「非戦闘地域」、明日は?

 

ところが、レバノンと海兵隊の蜜月は長く続かなかった。米軍はやがてレバノン内戦に巻き込まれ、反政府派や駐留シリア軍と敵対する存在となっていく。中立的な平和維持軍からの変身が、多数の犠牲者を出した米仏両軍施設に対する自爆テロの導火線となり、当初拍手に包まれて駐留を始めた国際監視軍は、撤退へと追い込まれていった。

 

この事件は、中東にあって、今日の「非戦闘地域」が明日は簡単に「戦闘地域」へと変わり得ることを教えている。もちろん、当時の米軍派兵と、今後の自衛隊派遣を安易に結び付けることは間違いだが、猫の目のように変わる中東情勢の変化の速さ(特に状況が悪くなる場合)と、その中であまりにも多くの命が失われ続けている事実を、われわれは肝に銘じておくべきであろう。

 

あらた・しげお
1949年生まれ 72年朝日新聞社入社 80~83年ベイルート支局長 86~89年ロンドン特派員 93~97年中東・アフリカ総局長(カイロ) 2002~05年ジュネーブ支局長などを歴任 現在 フリージャーナリスト

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