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フジヤマのトビウオ異聞 元日本水泳連盟会長の古橋廣之進さん(佐野 慎輔)2016年4月

食べる、食べる…何とも小気味よく皿が空いていく。

 

70歳を超えてなお、この食欲。私は半ばあきれ、目を丸くして、その人を見つめていた。こんなにおいしそうに、かつ、たくさん食べる人はもう1人、胃を切除する前の王貞治さんしか知らない。

 

目が合うと、その人、古橋廣之進さんは「へへへっ…」と照れたように笑った。「僕らはイモのしっぽまでかじって練習したもんだ。もう腹が減って腹が減って…」

 

食べ盛りの頃は戦中、戦後。物のない時代に腹をすかせながら泳ぎ続けた。古橋さんと食事をすると、いつもその頃の話になった。

 

1949年全米水泳選手権に招かれて渡米、橋爪四郎、浜口喜博さんら代表選手団はロサンゼルス郊外のフレッド・ワダ(日本名・和田勇)邸で合宿した。初めてテレビを見て驚き、初めて飲んだコーラやハンバーガーを食べたときの〝感動〟を幾度聞いたことか。うっとりとした表情が今も目に浮かぶ。今や飽食の国となった日本が飢えていた時代の話である。

 

古橋さんがその全米水泳で4つの自由形種目で世界新記録を出して優勝、敗戦に打ちひしがれていた日本国民を勇気づけた話はいまさらだろう。そして「The Flying Fish of Fujiyama」の異名がついたことも…。

 

ただ、異名については実際は少し違う。レース前、地元紙が日本代表を取り上げたときに、すでにこの形容で紹介していた。さらにいえば、邦字紙の羅府新報が「飛魚一行厳重な合宿生活へ」の見出しでいち早く記事にしてもいた。必ずしも古橋さんひとりの異名ではなく、日本選手団を指した形容だったと考えていい。

 

それが、全米水泳の快挙によって自分ひとりの異名に収束していく。どこか違和感も抱いていた。

 

日本水泳連盟会長時代の古橋さんが「水泳は団体競技だ」と発言したことがあった。折から2000年シドニー五輪の代表選考をめぐり、日本選手権で優勝しながら選考から漏れた千葉すず選手がスポーツ仲裁裁判所に日本水泳連盟を提訴、大きな話題となった頃である。

 

感情論から千葉擁護の論陣を張る人たちが、「精神論であり、全体主義の押し付け」と批判した。古橋さんは弱音こそ吐かなかったが、「なぜ、理解してもらえないのだろう」と漏らしたことがあった。水泳は個人競技といえども、チームワークの善しあし、まとまりの良さが成績に反映するとの信念を持っていた。

 

底流にはあの全米水泳があった。初の異境、それも戦後すぐ、日本非難が渦巻くロサンゼルスでの大会出場である。日系2世フレッド・ワダさんの献身が大きな支えではあったが、選手団の一体感が偉業達成に結実したことは言うまでもない。古橋さんは、そうした事実を歴史とともに分かってもらいたかった。

 

日本水泳連盟は千葉問題のあと、どの競技団体よりも明確な選考規定を設けている。そして、一体感を重視したチーム編成を変えていない。04年アテネ、08年北京、12年ロンドンと好成績を収めた要因である。

 

古橋さんが世界水泳選手権開催中のローマで亡くなったのは09年8月2日。日本水泳連盟は直前の6月25日、代表の愛称を「トビウオジャパン」と決めていた。もって瞑すべしと思ったことを覚えている。

 

(さの・しんすけ 産経新聞社特別記者兼論説委員)

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