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経済記者の醍醐味 「論理的な事件」の数々を取材して(村田 泰夫)2015年9月

新聞記者の醍醐味は事件取材にある。特ダネには推理小説さながら、いやそれ以上の背景やエピソード、そして人間関係が潜んでいる。事件取材は社会部の専売特許だと思い込んでいる人がいるとすれば、それは違う。私は経済記者一筋だったが、経済部の担当する分野でも、事件取材が中心を占める。

 

◆幻の「富士・三和銀行合併」

 

私が第一線を走り回っていた時代は経済事件の連続だった。とくに思い出深いのは、1970年代後半から80年代初めにかけて金融を担当していた時だった。もう40年も前のことだ。

 

「書かなかった話」というより、むしろ「書けなかった話」では、幻となった「富士・三和銀行合併」がある。東京本社の経済部で金融(日銀記者クラブ)を担当した後、79年7月、大阪本社に異動した。

 

大阪でも金融を担当し、当時の三和銀行頭取の赤司俊雄さんを知った。三和銀行は個人顧客を大切にするピープルズバンクを基本理念としていた。赤司さんは、全身全霊でピープルズバンク路線を推し進めていて、その経営姿勢に私は心酔していた。

 

ある晩、タクシーで赤司さんの自宅に夜回りしていた時のことだ。ウイスキーをごちそうになりながら、業界の再編成の話で盛り上がり、富士銀行との合併構想を聞いた。体が震えた。富士銀行の当時の松沢卓二頭取と話がついている。しかも事実上の「合併準備協議会」のような会合が、両行頭取の腹心らによって定期的に開かれていることも、その後の取材で確認できた。

 

関西を地盤として個人取引に強い三和銀行。一方の富士銀行は、関東を地盤とした芙蓉グループの中心的存在。規模もほぼ同じで、どちらかが吸収されるといった関係にならないのも都合がよい。合併すれば業界トップになる。まさに、お似合いのカップルだったのである。

 

バブルの崩壊で経営危機に直面したわが国の金融界が、相次いで合併を余儀なくされ、メガバンクを誕生させたのは2000年以降だ。住友はさくら(旧三井)と「三井住友」に、富士は第一勧銀・興銀と「みずほ」に、三和は東海と合併し「UFJ」になった後、三菱東京と「三菱東京UFJ」に再編された。

 

いずれも、バブル崩壊の後始末をつける守りの再編成だった。しかし、その20年前の1980年ごろの富士・三和合併交渉は、グローバル化をにらんだ攻めの金融再編成だった。富士銀行にとっては、第一勧銀に奪われていた預金量トップの座を奪い返せるし、三和銀行にとっては手薄だった関東でも地盤を築ける。もし、富士・三和の合併が成就していれば、わが国の金融地図も大きく変わっていただろう。

 

この合併交渉は、監督官庁である大蔵省が巨大銀行の誕生に強い難色を示してご破算になったといわれる。記事化のゴーサインをもらうことになっていた三和の赤司頭取が任期切れで退任したこともあって、大特ダネは幻に終わった。当時、大阪経済部で一緒に金融を担当していた後藤尚雄さん(現・朝日新聞常務取締役)と、「特ダネを打っていれば、日本新聞協会賞は間違いなしだったのにね」と昔を懐かしがっている。

 

◆銀行は企業ニュースの宝庫

 

「経済事件記者でありたい」と思っていた私にとって、金融担当はうってつけだった。あらゆる企業取材に首を突っ込めるからである。

 

市場の動きが金利を決める自由金利の今と違って、規制金利時代の当時は、公定歩合の変更を抜くことが、日銀担当記者に期待されていた使命だった。日本経済の景気動向をウオッチし、政府・日銀がどのような金融政策に出るか、マクロ経済を追うのである。

 

同時に、民間企業の経営危機や業界再編、首脳人事など、個別企業のニュースを追う取材も、金融担当記者の大切な役割の一つだった。

 

だいぶ様子が違うようになったが、当時は今以上に銀行が企業の命運を握っていた。金融が逼迫していたので銀行の地位が高かった。また、銀行が系列グループ企業の安定株主になっていたから、個別企業にからむ重要な情報は、メーンバンクに必ず入っていた。

 

主な産業には、それぞれ担当記者が張り付いている。私も自動車、鉄鋼、食品業界などを担当したことがあるからわかるが、それぞれの企業の首脳陣に取材しても、特ダネはなかなか取れるものではない。ところが、その企業のメーンバンクに当たると、ポロッと取れたりする。

 

記者は一匹狼のように動くことが多いが、私はチームを組んでの取材が得意だった。サッカーでいえば、アシスト役を積極的に買って出た。野球でいえば、バント役をいとわなかった。業界担当記者と、よく情報交換をした。合併、倒産、トップ人事など、業界ごとに懸案事項を一覧表にした「マル秘メモ」を作成、常に持ちながら夜回りしたものだ。

 

◆仮説を立て実証する作業

 

そんな中、当時としては史上最大級の倒産である「永大産業倒産事件」が起きた。プレハブ住宅の大手だが、住宅ブームの終焉とともに経営が行き詰まった。メーンバンクの第一勧業銀行の融資担当役員の自宅を連日夜回りし、「重大局面に、更正法適用の申請も」という特ダネを打った。78年2月19日の朝刊だ。「危機回避策検討」という逆方向の記事を載せた同日付けのライバル紙が、私の一面トップ記事をいっそう引き立ててくれた。

 

一息する間もなく起きたのが「佐世保重工事件」である。78年3月から6月にかけての「80日間の救済劇」だった。朝回り夜回りを一日も欠かさず、紙面では終始、事件の経緯をリードすることができた。今から振り返れば、官民なれ合いの「日本株式会社」終焉の断末魔をあぶりだす経済事件だった。

 

特ダネは、どうやって取るのか。基本的には取材相手から教えてもらわないと特ダネは取れない。合併や業務提携など企業にとって前向きなニュースは、当の企業からリーク(意図的な情報提供)されることもある。しかし、企業倒産など当事者が隠したがるニュースはリークしてくれるはずもない。

 

「教えてくれない」ネタを取る方法は、ないわけではない。相手の立場に立って、そういう状況ならどう考えるか。どんな対策を取るか。記者なりに考えて当事者にぶつけてみるのである。

 

外れていれば、「こういう別の状況がある」とか、「その対策では一方でこういう問題が出てくる」とか、教えてくれるものだ。出直して正解探しをやり直し、翌日の夜回りでぶつけてみる。当たりだったら「おぬしできる」と思ってくれる。全てをはっきり話してくれなくても、否定せずに記者を激励してくれる言動を得られるようになれば、勝利は手中にしたようなものだ。

 

実際は、禅問答の連続である。わかったようでわからない会話の連続だから、こちらの思い込みが激しいと失敗する。心を空にして相手の立場になりきらないといけない。

 

経済事件は社会事件と違って、交通事故や通り魔殺人事件のように、予告なくある日突起きる事件はまずない。経済事件には必ず理由があり予兆がある。「経済事件は論理的な事件である」ことに気づいてから、事件取材が面白くなった。

 

推理力が勝負だ。事態がどういう論理で動いているか知ることで、特ダネに近づけるからだ。仮説を立て、それを実証していく。この過程がたまらなく面白い。綿密な取材を積み重ねて、取材相手を追い込んでいくのは快感ですらある。幻となった「富士・三和銀行合併」も、論理的に考えて当事者にぶつけて引き出した。

 

私が第一線にいた時代と比べ、グローバル化が進んだこともあって、経済の動きは複雑さを増している。経済担当の若い記者たちは、特ダネ競争で熾烈な戦いを繰り広げていることだろう。健闘を祈りたい。

 

むらた・やすお
1945年生まれ 69年朝日新聞入社 経済部で財政 金融 農政 財界などを担当 経済部次長 論説委員 編集委員を経て 2005年退職 その後 農林漁業金融公庫理事 明治大学農学部客員教授を歴任

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