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ペルー大使公邸人質事件 「面白いものを見せてあげよう」とフジモリ大統領は言った(江口 義孝)2015年4月

1996年12月18日、私は、いつものように朝9時半の徹宵勤務者と日勤との引き継ぎ会議に出ていた。特段の申し送りもなく引き継ぎが終わったところで、不意にアルバイトの学生から声をかけられた。

 

「ペルーのリマから電話です」

 

私は、一瞬いぶかった。午前10時過ぎだった(現地17日午後8時過ぎ)。現地の取材助手からであった。

 

「日本大使公邸の近くで銃撃音がしているということです」

 

公邸は、首都リマでも有数の高級住宅地にあった。すぐ現場に行ってもらうことにした。20分ほどして電話があり、取材助手は興奮して早口でしゃべった。

 

「大変です! 日本大使公邸の門の内と外で、激しい銃撃戦です」

 

私は、取材助手が話す内容をメモにまとめると、すぐに原稿に取り掛かった。10時45分。11時のニュースに間に合う。報道局内共聴マイクに向かって怒鳴った。

 

「こちら国際部、ペルーの日本大使公邸で銃撃戦。直ちに一報出稿!」

 

報道局内のデスクの眼が一斉に国際部に注がれた。私の横にテレビニュース部のデスクが駆け寄ってきて、原稿を書いた先からひったくっていった。11時のニュースに間一髪間に合った。これが事件を伝える日本での第一報だった。

 

局内は騒然となり、局長をはじめ各部長が国際部のテーブルに集合してきた。正午ニュースのために、眼の前で起こっていることをスタジオと掛け合いで話すように取材助手に指示した。その時、取材助手が意外なことを口走った。

 

「今夜は、天皇誕生日を祝うパーティーが開かれています」

 

驚愕の情報だった。これで一気に日本を揺るがす大ニュースとなった。公邸に侵入したのは、反政府武装勢力に違いなかった。邸内にいるのは、招待されたペルー政府要人、各国大使、日本企業代表者、日系人社会の人たち、それに青木盛久大使以下の大使館員であることは明らかだった。

 

正午ニュースは、現地からの電話リポートも入って圧勝だった。次の勝負は、夜7時のニュース。にわか結成の取材・中継チームが、次々とリマを目指して出発していった。

 

◆テロ指揮官と青木大使に初接触

 

若い記者に命じて大使公邸の電話を休むことなくダイヤルさせた。しばらくすると電話がつながって、受話器の向こうで男の声がした。「指揮官のウエルタだ」とリーダーのセルパは、最初はそう名乗った。

 

「組織名は?」「トゥパク・アマルだ」「なぜ、日本大使公邸を襲った?」

 

「日本は、フジモリに多額の援助をして貧富の格差を広げているからだ」「目的は何だ?」「仲間の解放だ」これがセルパと私の最初で最後の会話だった。事件の筋が見えてきた。

 

2時間ほど間を置いて再度呼び出すと、今度はあまり流暢ではないスペイン語を話す別の男が出た。

 

「どなたですか?」「大使の青木だ」「どうしてスペイン語を話しているのですか?」「目の前にいる武装ゲリラが、スペイン語しか許可しない」

大使の声は落ち着いていた。

 

この2人との会話は、内部の様子を初めて伝える声として直ちに放送された後、全世界の主要な放送局に配信された。

 

127日間の占拠事件は、こうして幕を開けた。

 

◆テロ撲滅の徹底戦

 

私が初めてペルーを訪れたのは、86年8月だった。当時は爆弾テロや身代金目当ての誘拐事件が多く、送電線の破壊による停電もよくあった。

 

87年3月に訪れた時には、東京銀行のリマ支店長襲撃事件に遭遇した。当時の藪忠綱大使は、アメリカから特別に輸入した防弾車に乗って通勤していた。大使館の警備は厳重を極めていた。トゥパク・アマルとセンデロ・ルミノソによるテロの全盛時代であった。

 

誘拐を恐れて藪大使は、夜間や休日の外出も制限される不自由な生活を送っていた。大使公邸に招かれて詳しい情勢説明を聞きながら食事をした後、マージャンに誘われた。邸内に響く洗牌の音が、当時の状況を一層際立たせているように思えてならなかった。

 

90年に登場したフジモリ大統領は、徹底した情報収集による反政府武装勢力の摘発と、農村部の貧困層への援助などを通じて、テロの撲滅に取り組み、大きな成果を挙げていた。事件は、2つの武装勢力の壊滅まであと一歩に迫っていた時に起こった。

 

◆公邸の完全なレプリカがあった

 

仲間の釈放を求めるセルパらの要求は結局入れられず、翌97年4月22日、トンネルを使った特別編成部隊の突入作戦で、ペルー人人質1人と軍人2人の犠牲者を出して事件は終わった。

 

事件後に私たちに残された課題は、関係者の証言を集めて事件を検証することであった。一切公開されなかった交渉内容やペルー政府が把握していた公邸内の情報、そして軍事作戦がどのように準備され、突入の最終決断はいつどのようにして下されたのかといったことであった。

 

私のペルー政府内の人脈を通じて、番組制作への協力を大統領に直接依頼することになり、8年ぶりにリマを訪れた。大統領との直接インタビューを含めて、撮影への可能な限りの協力を取り付けることができた。

 

事件の最中に作戦本部が置かれていたSIN(国家情報局)での折衝の後、深夜にもかかわらず大統領が、何か魂胆ありげに「面白いものを見せてあげよう」と言った。私を車の助手席に誘うと、自らハンドルを握って暗黒の敷地内を走り始めた。数分後に大統領が車を止めて降り立ち、警備の兵士に何かを命じた。はじけるような音とともに何カ所からまばゆい明かりがともされた。その中心に照らされたのは、2階建ての大使公邸の完全なレプリカだった。

 

こっちに来いと手招きする大統領の後に続くと、トンネルの入り口が見え、中に入ると人が背を屈めて歩けるくらいの通路が掘られてあった。レプリカに通じる通路左手に掘られた広い待機室、突入を合図する電球、通風用の扇風機などが、訓練時と変わらずそのまま残されていた。

 

「撮影のために必要なら、当時の隊員を連れて来て突入作戦を再現してあげよう」と言って微笑んだ。

 

この一言で、映像の核心部分が出来上がったと、私は確信した。NHK特集「突入」は、97年10月に放送され大きな反響を呼んだ。文化庁芸術祭のドキュメンタリー部門で優秀賞を受け、モンテカルロ国際ドキュメンタリーコンクールでも銀賞を受けた。

 

◆幻の映画化計画

 

98年に、市川昆監督の「ビルマの竪琴」を製作したプロデューサーから映画化の話が持ちかけられた。台本は松山善三監督が書き、ペルーでロケをしたい、そのためにフジモリ大統領への協力依頼を仲介してほしいということだった。私は休暇を取り、プロデューサーとリマに向かった。

 

大統領府で映画製作協力の話に入ったのだが、ストーリーが交渉の保証人だったシプリアーニ大司教を軸にして描かれていることが、どうやら大統領の気に入らなかったようだった。製作に協力はするが、台本の手直しや配役にハリウッドの俳優を起用するようにという注文も付いたと聞いた。結局、その後の何度かの協議の後、2000年の大統領の突然の辞任によって、映画化の話は立ち消えになってしまった。

 

フジモリ大統領は人権侵害に問われて禁固25年の有罪判決を受け、ルリガンチョ刑務所に囚われたままである。娘のケイコは、11年の大統領選挙に出馬して惜しくもウマラ候補に敗れたが、野党第一勢力の党首である。フジモリ一族は、ペルー政界に影響力を残している。

 

事件から20年近くが経過した。国民一人あたりの総所得額は大きく上昇して、生活改善が図られたという。ペルー国独立以来の宿痾である農村部での貧困の現状をみるために、近い機会にかの地を訪れたいと思う。

 

えぐち・よしたか

 

1950年生まれ 74年NHK入局 福岡放送局 外信部 84年テヘラン 85年リオデジャネイロ 90年バルセロナ 99年バンコク各支局長を経て 2003年国際部長 06年放送総局解説主幹 現在NHKグローバルメディア常務取締役 ペルー日本大使公邸事件でNHK会長賞受賞

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