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国交正常化前 成長目指す韓国の姿送った〝七人の侍〟~産経初代ソウル支局長のころ~(野美山 薫)2015年2月

韓国では、李承晩大統領が1960年4月19日の学生革命によって退陣したあと、尹ボ善大統領、張勉首相の政権が成立した。しかし1年足らずで起こった少壮軍人のクーデターにより、61年5月16日、張勉内閣は解体された。私は62年5月、産経新聞の初代ソウル支局長として、大阪社会部から韓国に初めて足を踏み入れた。

 

そのころ、日本と韓国の間には国交はなく、日本の新聞記者は在韓米軍の従軍記者として入国し、米第8軍のPLO(プレス・リエゾン・オフィス)からIDカードをもらい、ソウルの外人記者クラブのメンバーになった。

 

ソウルには全国紙4社と通信社2社、NHKが常駐することになったが、読売新聞以外は支庁前の一等地にある半島ホテルの7、8階の部屋にそれぞれ支局をおき、住居と事務所を兼ねていた。産経の隣室は張勉首相の住居になっていたスイートルームで、内外の要人の宿泊に使われており、取材には便利だった。

 

読売の記者はソウルの龍山中学の出身。そこは韓国人の学生が多く、軍事政権の若い将校たちに同級生がいっぱいいた。夫人と息子たちと、外人住宅に住んでおり、夜は昔の仲間が集まって、酒盛りもしばしば。社会部出身のよしみで、時折私を招いてくれた。韓国の青年将校たちは、日本の明治維新や二・二六事件のことをよく知っており、「同期の桜」や「昭和維新の歌」を合唱したこともあった。

 

産経の外信部からは、これまで柴田穂記者が何度かソウルに来ており、その時の人脈を引き継ぐことができた。

 

赴任した日にホテルに来てくれた東亜日報社会部のR記者は、その日が梨花女子大の5月祭だから見た方がいいと、案内に婦人記者をつけてくれた。

 

夜はサツまわりの車に乗せてくれ、社会部の取材ぶりを見学。部会のコンパにも呼んでくれた。部長が「安重根を知っているか」と聞いてきたが、一応のことは調べていたので、テストには無事合格したようだ。

 

 

役所の取材などは英語だけだったが、夜の飲み会になると、みんな日本語がうまいのに驚いた。英語の力を付けるために、ホテルの近くに住む医師夫妻と、米国に留学が決まっていた女性と一緒に、米人を囲んでの勉強会に入れてもらい、韓国のこともいろいろ教えてもらった。

 

外人記者クラブでは、毎月1回の板門店での米軍と北朝鮮との会談を取材に出かけた。板門店には米軍の電話があり、受話器を取ると横田基地が出て、日本のどこへでもつないでくれる。本社との込み入った話などは、この電話をよく使ったものだ。

 

前線での演習にも同行したが、兵士の昼食の弁当にはステーキやアイスクリームまでついている。案内の将校は「兵隊にはこのくらい食べさせないと、戦争はできませんよ」ということだった。

 

従軍記者は外人用の売店も利用でき、毎月スピリッツ3本、ワイン6本やコーヒーなどを格安で買うことができる。そのころの韓国には、こうした洋酒類はないし、コーヒーもなかった。私は酒をたしなまないので、支局の来客用に役立てた。日本の新聞や雑誌もあるので、連日のように来客があり、ニュースを手土産に、日本の経済や政治について聞かれることも多かった。

 

軍事政権でも外人記者を観光地の慶州に招待し、首相、外相も一緒で、パーティーでは自由に話ができた。政権を担う最高会議の朴正煕議長の内外記者会見では、日本人記者も英語で質問できた。

 

青年将校たちは、初心では国をよくしようという意気込みがあり、暴力団を厳しく取り締まったり、経済にも力を入れていた。親しかった韓国の記者の何人かは、政権に入っていった。

 

 

新聞記者は足で書けと仕込まれてきたので、現場に走る。ソウル大学での学生の騒ぎでは、学生たちの隊列のなかにいた。警官隊が出てきて、一斉に銃口を向けてきた。「怖くないのか」と横の学生に聞いたら、「鉄砲が怖くて革命はやれません」と平然としている。

 

米軍の演習にヘリや小型機で同行する機会も多かったが、前夜、必ず書類にサインを求められた。「どんなことがあっても賠償を求めません」と書かれたものだが、その時はそれとなく家に手紙を書いた。

 

ホテルに近い南大門市場には、毎日のように出かけて、米価をチェックし、量も確かめた。韓国の新聞は食糧危機でいまにも政権が倒れるかのように書いていたが、時系列で見ると、かなりよくなっている。本社からは、「他紙に比べると、突っ込みが浅いのではないか」と言われたが、「大丈夫と書くには自信がないと書けない」と反論したのを覚えている。

 

産経は政権の中枢にニュースソースがあり、重要な会議があった時は、軍のジープがホテルに迎えに来た。帰りもジープだったが、夜間通行禁止で一般人は深夜の市中を動けなかったからだ。

 

隣のスイートルームのお客では、韓国の国歌を作曲した安益泰氏とよく話をした。東京音楽学校に学んだ同氏は、配属将校にいじめられたそうだが、仲間の日本人学生たちがいつもかばってくれたという。ソウルでの新聞の死亡広告には、日本時代の学校の同窓会が名前を連ねていたし、スポーツの交流で日本の学生チームが来ると、ソウルの先輩たちが面倒を見てくれたということだ。

 

ハンドボールで女子高生のチームが来た時に、団長が永野重雄氏だったので会いに行った。場末の小さな宿屋で、学生たちと一緒に泊まっていた永野氏を見て、この人はなかなかの人だと思った。

 

財界の視察団もいくつかみえたが、お歴々が秘書を連れてくることも許されず、団長もスイートルームに一人ぼっち。隣室のよしみで、いろいろ相談に乗ることもあった。川崎重工の砂野仁社長は、出入りの時に私の部屋に来て「新聞記者は身体を粗末にしている。真向法を教えよう」と言われる。毎朝5時すぎに部屋をノックされ、教えを受けたあと、散歩に付き合った。

 

 

国交がないので、日本の外務省も常駐者はおけず、時々数週間滞在というかたちだった。ソウルにいる日本人は、私たちのほか、商社が数人、東京銀行1人くらい。キューバ危機の時は在韓米軍も戦闘配置につき、もし戦争が始まったらどうするか、記者仲間で集まって協議した。結局、ホテルの向かいのアメリカ大使館に駆け込むことにした。

 

韓国の情報は、東京でも限られていたようで、私たちは〝七人の侍〟として注目されていたらしい。大平正芳外相から「ご苦労さん」ということで、炊飯器が贈られてきた。ソウルの米はとてもおいしく、仲間で飯を炊くこともあった。

 

すでに李承晩大統領の時代から、韓国の教科書では、日本についての厳しい記述が多く掲載されていた。しかし、実際に日本人に会うことはほとんどなかったので、私なども街で道を聞かれたり、時間を聞かれることもしばしばだった。1年半の在任中に、慰安婦問題や竹島問題などで不愉快な思いをすることは、まったくなかった。

 

朴議長も、日本人の教師から「お前は頭が良いから、金のかからない軍の学校に行け」とすすめられたという。金鐘泌中央情報部長も、授業料不要の師範学校で学んでいる。ソウル大学のR教授も旧制高校時代に教師から「独立を目指すなら経済を勉強しろよ」と言われたそうだ。

 

韓国のこの世代の人たちは、きちんと現実を踏まえ、なによりも成長を目指していたことがわかる。当時の支局に出入りする韓国の人たちからは、そうした印象を受けた。

 

のみやま・かおる
1929年生まれ 53年産経新聞入社 大阪社会部 ソウル支局長政治部次長 世論調査室長 弘報部長 編集委員 社団法人日本通信販売協会事務局長 同専務理事を17年務める

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