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ゴルバチョフの片腕だったヤコブレフさん 見果てぬ夢に終わった人道主義(栢 俊彦)2014年12月

アレクサンドル・ヤコブレフさんは1980年代、旧ソ連共産党の政治局員として、ゴルバチョフ書記長のペレストロイカを思想面から支えた。グラスノスチ(情報公開)政策を打ち出し、検閲でお蔵入りしていた小説や映画を公開したり、新聞や雑誌の編集部に表現の自由を与えた。

 

この政策は国民の目を大きく開かせた。国民は全体主義体制が生んだ負の遺産の大きさに気づき、急速に共産党への信頼を失っていった。ゴルバチョフ氏が共産党の指導体制と社会主義体制の維持に固執したことから、国民の期待はエリツィン氏に集まり、歴史の流れは一気に市場経済、民主主義体制への移行と91年12月のソ連崩壊に向かった。こうした結末をヤコブレフさんは予期していたのか、そして望んでいたのか。

 

私がインタビューしたのは2004年12月。81歳で亡くなる10カ月前のことだった。ソ連崩壊から13年の月日が流れていた。

 

「歴史はずる賢い女のようなものだ。夫がいるにもかかわらず、もっと良い男はいないかといつもきょろきょろしている。つまり、われわれがペレストロイカを始めた時に期待していたことは、その通りにならなかった」。ヤコブレフさんは独特の表現で過去を振り返った。

 

何が失望の源にあるのか。矛先はジャーナリストと国会議員に向かった。「新聞記者の変わり身の早さには本当にうろたえた。以前は『改革のスピードが遅すぎる』とか『決断力が足りない』などとわれわれ指導部を責め立てた連中が、いまではプーチン政権の代理人と化し反動的な立場を取っている。家族や雇用のことを考えているのだろうが…」

 

淡々とした口調の中にも悔しさが隠せない様子だった。

 

新生ロシアの国会議員については「善良な人たちが議員になると期待していたのに、良心のかけらもないデマゴーグたちが議会に入り込んだ」と容赦がない。

 

ペレストロイカ時代、ゴルバチョフ氏には片腕が2人いた。ヤコブレフさんと、もう1人は保守派を代表する政治局員のエゴール・リガチョフ氏。リガチョフ氏が党官僚や軍産複合体をバックに共産党の「鉄の腕」による支配を主張する時、ヤコブレフさんは、いつも知識人とジャーナリストを頼りに対抗した。「その仲間たちから裏切られた」との思いがヤコブレフさんの胸にわだかまっているように見えた。

 

しかし、ヤコブレフさんの夢は実現可能だったのか。彼はカナダ大使として10年間を過ごした経験から、民主主義と自由、人権といった欧米的価値を「改革」という方法で理性的にロシアにもたらそうとした。実際に起きたのはエリツィン氏による「革命」だった。

 

私自身はといえば、民主主義が成立するには自立精神を持つ市民の層が必要であり、産業の発展が市民層形成の前提と考えてきた。自著『株式会社ロシア』の中で私は、「市民」の不在を嘆くヤコブレフさんのことを「『自由による調和』を観念的に追い求めた『ソ連体制のロマンチスト』」と表現した。いま読み返すと少し気の毒な気もするが…。

 

ご本人は93年の著書『歴史の幻影』においてすでに、ペレストロイカの運命をボリシェビキ革命にのみ込まれた2月革命になぞらえていた。ロシアでは自由主義的な改革はつぶされるか、急進的な革命に取って代わられるしかないのか。ヤコブレフさんの夢をどう実現するかはプーチン大統領の課題でもある。

 

(かや・としひこ 日本経済新聞出版社取締役)

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