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ベルリンの壁崩壊から25年 あの夜、チャーリー検問所で 2014年11月

東西冷戦の象徴だった「ベルリンの壁」が崩壊して、ちょうど4半世紀。崩壊当夜、西ベルリンになだれ込んだ東独市民の人波の中にいた日本人記者2人に、現場の熱気が伝わってくる体験談を寄稿していただきました。「書いた話書かなかった話」の特別編です。


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東西境界を往復 〝細い糸〟で伝えた興奮


森 千春(読売新聞社)


1989年11月9日夜、東独情勢取材の出張で東ベルリンに滞在していた私は、ホテルの一室にいた。原稿を書かなくてはならなかった。


同日夕に取材した記者会見で、支配政党、ドイツ社会主義統一党のシャボウスキ政治局員は、国外旅行に関する暫定措置を明らかにした。大幅な自由化であることは分かった。だが、出国には「申請」し「許可」を得る手続きが必要だ。


「明日は、旅行を申請する人々の長蛇の列が、役所にできるだろう」と考えていた。その時、電話が鳴った。東京本社外報部の泊まり番の同僚が、原野喜一郎ボン特派員からの情報を伝えた。西独のテレビニュースが、東ベルリン市民が「壁」に向かって殺到していると報じたと言う。


連絡がボンから直接でなく、東京経由だったのは、東独の電話事情のためだ。西独からは非常にかかりにくく、日本からの方が容易だった。


私は、慌ててホテルを出た。自分が東ベルリン入りした2日前に通ったチャーリー検問所(チェックポイント・チャーリー)に歩いて行った。ホテルからは約1・4キロの距離だ。約200人の市民が詰め掛け、騒然としていた。


警官が、国営旅行社に行って手続きをしろと言う。市民たちと旅行社に移動した。そこでも埒が明かない。「許可印なしでも出国できる」という情報が口づてで広がり、市民たちはまた検問所に向かった。時計の針が零時を過ぎたころだった。


後日、判明したのだが、ドイツ社会主義統一党は本来、旅行自由化措置を10日に発表し実施する予定だった。しかし、手違いで9日に公表してしまった。警備当局は準備ができていなかった。テレビでニュースを聞いた市民が検問所に押しかけ、当局はその圧力に屈して、ゲートを開いた。


私はいったんホテルに戻り、夕刊早版用の原稿を送り、再びチャーリー検問所に戻った。


市民たちが検問所に入っていく。同行するかどうか、一瞬ためらった。東独取材ビザが失効すると困ると思ったのだが、大丈夫だろうという勘に任せて、ついて行った。


警備兵は微笑を浮かべながら、パスポートを一瞥するだけだった。若い女性が、警備兵に食い下がるように、「帰って来られるのでしょうね」と聞いていた。いったん西に行ったら東に戻れなくなるのでは、という不安にとらわれたらしい。


無理もない。「壁」が東西ベルリンを分かつこと28年。自由往来の実現が、簡単には信じられなかったのだろう。


東西境界を通過して、西ベルリンに入ったのは、午前3時40分(日本時間午前11時40分)だった。街に入っていく市民たちの後ろ姿を見送ると、夕刊最終版用の原稿を送るために、東ベルリンに戻った。


こうして、あの夜の取材を振り返ると、隔世の感がある。携帯電話もインターネットも無縁だった。東京本社とは、ホテルの電話という一本の細い糸だけでつながっていた。ベルリンで起きている出来事の全体像がつかめず、右往左往した。


ただ、あの夜、市民たちに直に接したという手応えは、いまも残っている。行列の中で、あるいは路上で、インタビューした10人を超す市民たちは、興奮し冗舌だった。


現場を歩き、人から話を聞く。そして原稿を書く。いつの世も変わらぬ記者の基本であろう。それを世界史に残るあの夜、実行できたことは、記者として幸せだったと思う。


もり・ちはる▼1982年読売新聞入社 ベルリン ソウル ロンドン特派員など2011年から論説委員


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映像伝送どうする? 頼りは仏中継車だった


西川 吉郎(NHK)


世界が「歓喜」と伝えた壁の崩壊、私はこの歴史的な瞬間の〝栄誉ある〟目撃者の1人となった。11月9日、東ベルリン側にいて取材していた私は、午後8時過ぎ、東西間の表玄関ともいえる検問所、通称「チェックポイント・チャーリー」に着いた。


入り口前の広場は、すでに群衆に埋め尽くされ、前に進むこともできない状態だった。やがてゆっくり動きだした群衆は、検問所の施設の中に流れ込み、私もそれに流されるように歩行者用の狭い通路を押し合いへし合いしながら、西側にたどりついてしまった。


パスポートの確認もなかった。傍らにはカメラマンとディレクターが一緒だった。私はカメラマンの後ろから彼のベルトを握りしめ、国境警備隊がわれわれを制止するため威嚇射撃をしてこないか、警棒などを手に襲いかかってこないか、その際にはカメラマンを引き倒してでも身を守らなければと本気で考えていた。


それまでもたびたび東ベルリンに入り取材してきた経験では、取材クルーが壁に近づくだけで、どこからともなく東独警察のパトカーが現れて呼び止められるなど、目に見えない徹底した監視ぶりに、いつも薄寒い思いをしてきた。


先立つ記者会見で、東ドイツ政権は西側への出国を可能とする原則を明らかにしていたが、実施の詳細について具体的な答えの用意はなく、居合わせた多くの記者は半信半疑であった。


のちに政権は東西間の行き来をこの日まだ認めていたわけではなかった経緯が明らかになっているが、秩序を重んじるドイツ人気性はどこかにいき、国境警備隊は、流れ出る群衆を押しとどめることはしなかった。あの時の東ドイツの群衆の熱気、自由に対する切望が、結局は共産主義の厚い壁を突き崩したと言えるだろう。


検問所の西側では東側からの訪問者を迎える人たちが集まり始めており、シャンパンをかけあい、喜びの抱擁を繰り広げる「歓喜」の祭りが始まった。私も後戻りのできない歴史的な事態のさなかにあることを理解した。


テレビ記者として検問所の入り口や出口などでリポートをしていたのは当然だが、問題は、これをどのように日本まで届けるかだった。西ベルリンは、周囲を東ドイツ、東ベルリンに囲まれた、いわば陸の孤島だ。映像伝送と言えば、唯一のテレビ局、自由ベルリン放送だけがその機能を持っていた。しかし、ここから外国に出ている伝送回線は、西ドイツに向かう一本しかなく、当夜から西ドイツのテレビが独占することになった。


一方、東側でも東ドイツ国営放送局から伝送が考えられたが、これも当局が西側のテレビ局の使用をしばらく認めず、現在のように簡易な装置がない当時、せっかく撮影した映像を送る手段がなくなってしまった。このため、当初は電話による音声リポートで対応せざるを得ず、悔しい思いをした。


数日すると、フランスのテレビ電送公社の衛星中継車が陸路ベルリンまで到着し、この回線の一部を使わせてもらうことができ、初めて独自の伝送、そして中継にこぎつけた。


また、東ドイツ国営テレビも中継車を用意するなどしだしたが、旧ソビエトの中継衛星を介した回線は、不安定でほとんど使えなかった記憶がある。


ただ、フランスの中継車も使えるのは基本的に現地時間の未明に限られることが多く、日ごとに寒さを増すベルリンの運河沿いの空き地に止めた中継車まで日中取材した映像を運び、フランス人オペレーターと伝送したことを、いまでも鮮明に思い出す。


ベルリンの壁崩壊から間もなく、東西ドイツ国境も開かれた。ハノーバー近くの村では、もともと1つであった村を分断してきた壁に1メートルほどの隙間が作られて、徒歩で行き来が始まった。いそいそと西側に向かう男性が、壁を指して「これまではここが世界の終わりだったが、今日からはここから世界が始まる」と話していたのが、いまでも忘れられない一言になっている。


にしかわ・よしお▼1980年NHK入局 パリ ワシントン特派員など 2014年から解説委員長

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