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サミット取材40年の裏話 G7からG8の現場を見続けて(玉置 和宏)2014年6月

6月にソチで開催される予定だった「G8」がウクライナ紛争で中止となった。発足以来40年で異例の事態である。法と正義、統治、策謀、分裂など、あらゆる航跡を残してG8は一気に沈没に向かうのか。


◆ブッシュとシラクの対決


G8崩壊の危機は今回が初めてではない。2003年のイラク戦争をめぐって、米国連合(英国、日本、イタリア)と、反対する仏連合(ドイツ、ロシア、カナダ)が仏エビアン・サミットで激しく対立した。G・W・ブッシュ(米大統領)は出迎えるホストのシラク(仏大統領)との握手をふりほどき、揚げ句の果て、わずかな滞在で退出した。ボイコット同然である。シラクは憮然として「私はブッシュにこう言ってやりました。『戦争は一カ国でも始められるが、終わらせるにはそうはいかない』とね」。通訳の英語が左耳のイヤホンから聞こえてきた時、その通りだと感得したものだ。小泉純一郎(首相)はブレア(英首相)とともに、ブッシュのプードルと化していた。これも楽ではないが。


1979年6月、最初の大型国際会議、東京サミット(第5回先進国首脳会議)に各新聞は最大の取材陣で臨んだ。日銀キャップだったが、メンバーに入っていない。担当デスクに抗議すると「このばか者!」ときた。頭にきていたら5分くらいして「田舎の村長さん」のような人格円満部長から電話があり「君には取材班全体のサブキャップをやってもらいたい」と言う。ここから、わがサミットおたくが始まった。


直接現地で取材したのは、現役を引退した2010年までの36回中ほぼ半分の17回である。たぶん取材記者の中で異例な長さかもしれない。ライバル(?)がいた。ルーマニアで新聞を経営していた老夫妻で、01年のジェノバまで来ていたが、その後、顔を見せなくなった。


無理やり潜り込んだサミット取材班だったが、仕事が全く与えられず1行も書けない。仕方なくシャーロックホームズのように徹底、微細に観察することを本務とした。収穫は就任したばかりのサッチャー(英首相)の美貌にじかに触れたことだ。彼女はいまでいう新自由主義を披露、ケインズ的社民主義に翻弄されていた首脳たちに衝撃を与えた。


私は翌80年、部長に頼み込んでサッチャー思想に影響を与えたとされるハイエク(ノーベル経済学賞受賞)が教鞭を取っていたロンドンスクール・オブ・エコノミクス(LSE)に「遊学」させていただいた。ハイエク自身はすでにフリードマン(同受賞)のいたシカゴ大学に移り、LSEでは森嶋通夫(教授)が大学院の選考委員だった。「英語はできますか」「はい」。人生最大の虚偽申告と反省している。


◆中曽根の割り込み「事件」


帰国して2年後の83年、米本土での初のサミットは古都ウィリアムズバーグである。ここにレーガン(米大統領)、サッチャー、中曽根康弘(首相)という新自由主義トリオの面々が顔をそろえた。特派員団のキャップとして中曽根に同行、勇躍現地に乗り込んだ。


このサミットは後に旧ソ連の崩壊を促した軍事的な意味でも戦略的な会合として位置づけられているが、裏舞台でも、ある契機となった。キャピトル(議事堂)から出てきた首脳たちはホストを中心に集合写真で一列に並ぶ。その立ち位置は国の格である。ホストのレーガンは左のサッチャーと話しながら、あと4、5㍍ぐらいで停止線に並ぶというその時だ。中曽根が後ろから一瞬両者の間に身体を滑り込ませ、レーガンの左隣に割り込んでいるではないか。


見ていた記者団から笑いが起こった。それより呆気にとられたサッチャーの表情が印象的だった。以後、国家元首(大統領)優遇、政府代表(首相)冷遇となる。外交儀礼(プロトコル)という名の米仏の陰謀だ。日本が常にEU委員長並みに左右の末席を汚している理由は、ここにある。


◆英文vs邦文の結末


86年、2度目の東京サミットで社全体のキャップとなった。サミット取材の肝は、まず最終コミュニケのドラフトを入手することにある。スクープ記者であるS君を編集局の柱の陰に呼び「ブツを手に入れてくれ、取材費はいくらかかってもいい」。サミット本番の4日前の早朝、自宅に電話が来た。「取りました」「そうか、朝刊アタマで行こう。全文要約つきだ」


その数日後、朝日が全文入手とトップで打ってきたのは想定外だったが、真相はすぐ判明した。毎日が取ったのは正規の英文で、それをS君が自分で翻訳。一部わざと誤訳したという。朝日は外務省訳ということも、すぐ明らかになった。だが、この「毎朝戦争」は意外な幕切れとなった。豪腕と謳われたベーカー(米財務長官)が大幅にコミュニケを書き換えてしまったのである。


◆ロシアの「領土トラップ」


いま世界を手玉にとっているプーチン(露大統領)。大変な戦略的策謀家であることを知ったのは、例の01年「9・11」同時多発テロの直後である。傷心のブッシュ(米大統領)に誰よりも早くお見舞いの電話をし「共にテロと闘おう」と誓う。プーチンはこの機転によって翌02年G8のフルメンバー資格と06年のサミット開催権という大国としての報酬を得た。


そもそもロシアをサミットに引き込んだのはクリントン(米大統領)と地政学的に西側に囲み込みたいコール(独首相)だ。平和条約も結んでいない日本は強く反対した。コールはエリツィン(露大統領)にこうささやいた。「北方領土交渉を進めなさい」。これからは私の独断と偏見としよう。橋本龍太郎(首相)は、領土問題を解決したいとの強い想いも手伝ってやすやすとエリツィンの「領土トラップ」に引っかかった。


97年の米デンバー・サミットでクリントンはロシアのサミット参加を意気揚々と公表した。その半年後、クラスノヤルスク合意(00年までに領土問題を解決し平和条約を結ぶことを目指す)が成立。翌年春「川奈会談」につながったが、一瞬の幻影に終わる。


98年の英バーミンガム・サミットで正式に「G8」が誕生した。善人橋本は「2年後の日本のサミットの順番をロシアに譲る」と口走り、翌年以降のイタリア、カナダを怒らせて慌てて撤回した。エリツィンは退任後の04年、橋本夫妻をモスクワ郊外の別荘に招いて歓待し「北方領土のことはよくプーチンに引き継いでおく」と語った。橋本のブログにはそうある。


「エリツィン自身は領土問題に積極的だったが、側近がそれを阻んだ」とする見方もある。だからといって日本をだましたことに違いはない。エリツィンはその3年後に死去した。国葬に各国は首脳クラスが参列した。日本はモスクワ駐在の大使のみが葬列に並んだ。「葬儀に間に合う航空機がない」と弁解した。リベンジ(復讐)はいいが、少し子どもっぽい。


もしG8が存続したら16年、日本で6度目の会合が開かれる。多分ホストは安倍晋三(首相)、プーチンはあの怜悧な顔で、オバマはレームダックでG8に臨む。中国の習近平(国家主席)と韓国の朴槿恵(大統領)は招待されるが、どんな顔で来るか。生涯ラストのG8取材の現地は東北のどこかに違いない。


(肩書は当時=敬称略)


たまき・かずひろ

1939年北海道生まれ 62年毎日新聞東京本社入社 「エコノミスト」編集長 論説副委員長特別編集委員 論説室顧問 現在本社特別顧問 総合政策研究会理事長 一橋大学国際公共政策大学院で「G8サミット論」を担当(06年~10年) 主著『きのう異端あす正統』(毎日新聞社)『G8サミットの本当はスリリングな内幕』(飛鳥新社)


*クラブウェブサイトの「会員ジャーナル 私の取材余話」に玉置会員の「サミット取材40年の裏話」完全版を掲載予定です。

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