ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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40年前に壁掛けテレビ試作版を追う(澤井 仁)2014年5月

1970年代は電子産業の勃興期であった。IBMが世界のコンピューター市場で勢力拡大し、わが国では国を挙げてコンピューターのハード、ソフトの開発に迫られていた。特に国産各社を組織した研究組合が、メモリーを中心として大規模半導体集積回路の開発などに力を入れた。


この時期に日本経済新聞社は米国のマグロウヒル社と合弁して日経マグロウヒル社(日経BP社の前身)を創立し、技術ジャーナリズム作りをスタートした。私はその数年前に日経に科学技術記者として入社し、社会部に所属していた。60年代の末には、アポロ11号が人類を月に運び、わが国では初の心臓移植手術が札幌医大で行われ、東大が内之浦から初めての人工衛星「おおすみ」を打ち上げるなど、大きな科学技術事象があって、忙しい日を送った。


日経マグロウヒル社で「日経ビジネス」に次いで「日経エレクトロニクス」が71年に創刊され、出向を命じられた。記者が書く技術雑誌はわが国初めての試みで、日経からの出向を含めて15人程度の専門記者がニュース、リポート、解説と書きまくった。自分の専門分野を深掘りした。役立つ技術とは何か、そのシーズ(seeds・種)を見つけ評価することが主眼で、自分の持ち分を耕さないと他の記者から侵食された。


◆プラズマ・ディスプレイ開発が先陣


私の守備範囲の中にディスプレイがあった。コンピューターの出力表示として、またブラウン管テレビに替わる壁掛けテレビとして、60年代後半から各社は研究開発を始めていた。いまでは大型のプラズマ・テレビ、液晶テレビがいきわたっているが、研究開発が始まったのは50年も前である。


しかし当時は、技術開発というよりは研究開発の段階だった。プラズマでは三原色を出すにはガスを何にするか、マトリクス表示をどうするかなど、液晶では分子の反応をどうすれば速くすることができるのかなど、基本研究からスタートしていた。プラズマでは富士通、日立、東芝、三菱、ソニー、沖、NHK、外国ではIBM、オーウェンズ・イリノイ、バローズなどが、研究開発に力を入れていた。


取材は各社の広報を通じて申し込んでも、「まだ研究中ですから」と断られる。そこで学会での発表を細かく分析した。電気通信学会、テレビジョン学会、画像工学カンファランス、海外では情報表示学会(SID)国際会議、国際デバイス素子会議(IEDM)などのプログラム、論文誌を取り寄せて発表論文を追い、特許情報を探した。


そして学会に出向いて研究者に会って話を聞いた。何度も各社の研究者に会ううちに、知己を得て研究の進展がわかるようになった。研究は急ピッチで進んでいた。各社の研究所での取材ができるようになった。


70年代の初めには液晶よりもプラズマ・ディスプレイの方が研究は進展していた。液晶では反応が遅く、カラー化しての駆動などに問題が多くあった。プラズマは輝度が高く大型化も可能など長所があり、IBMなど海外研究所でも有望視して開発競争状態だった。


◆壁掛けテレビの試作版誕生


74年になると日本の各社が、テレビ画像表示の試作機作りに入ってきた。取材にも力が入った。米国のオーウェンズ・イリノイに取材して、技術力の高さに驚いた。米国ではコンピューターの表示装置として、わが国では壁掛けテレビとしての開発が主眼であった。


試作機を作る段階とは、研究開発がほぼ終わり技術開発の段階に入ったという転換点を意味した。しかし、なかなか写真を撮らせてもらえない。研究開発本部長も、特許や技術の漏えいなどを心配して、取材を渋った。そのため特許を提出した直後に掲載するとか、学会発表の直後に掲載するなど条件交渉した。また、海外も含めて各社の画像の写真を出すことを条件に許しを取り付けた。


そして「日経エレクトロニクス」74年7月15日号に21ページにわたって「壁掛けテレビに肉薄する各社開発の現状」を書くことができた。写真はこの号の表紙である。記事では、各社のプラズマ・ディスプレイの駆動方式や表示画面、画素の構造とその特徴などを細報した。当時は直流駆動と交流駆動に分かれ、直流駆動の方が輝度は高かったが、90年代になり電極が安定して交流駆動に統一されていった。


この時期からわが国の各社の技術開発には拍車がかかり、80年代には東芝がラップトップ・パソコンの表示部に橙色の表示で製品化した。さらに90年代末にパイオニアが50型のカラーテレビを世界で初めて製品化し、各社が続いた。しかし、2005年を越えると、液晶テレビの技術開発が急進し、プラズマ・テレビを凌駕し始めた。技術のシーズを取材して感じたのは、技術が実用化するまでには、早くて30年~40年かかるものだということである。


◆バイオの時代始まる


80年代になると技術はバイオテクノロジーの時代になった。社では「日経バイオテク」という専門技術誌を創刊した。この編集を担当したが、広告のない高額なニューズレターであったため、新聞のように商品に近い記事でなく、やはり研究所でひそかに研究を進めている大きなシーズをすっぱ抜かなければならない。ここでもやはり医学・生物関連の学会、分子生物学会、農芸化学会、癌学会など多くの学会、特許情報を対象にシーズの発表を探索せねばならなかった。


80年代の初めは、インスリン、インターフェロンなどのヒトのタンパクを大腸菌や酵母菌で大量生産する方法が可能となり、将来大きな産業となる可能性に多くの企業が参入し始めた。わが国では武田薬品、協和発酵、サントリー、旭化成、東レなどがインターフェロンのα、β、γ型の研究を競っていた。中でもサントリー生物医学研究所が先頭を走り、がんに効き目の強いγ型の遺伝子を化学合成して、大腸菌で発現させることに成功した。合成遺伝子の発現に成功したのは世界初めてで、82年4月26日号で特報した。


しかしインターフェロンに血道を挙げた日本のバイオ研究はしっぺ返しを受ける。試験管ではがんに効いても、臨床では副作用が強く使いものにならないことがわかった。研究開発を断念する研究所が多かったが、東レ、林原などは続け、C型肝炎に効果を見つけ息を吹き返した。


◆メバロチンの使い過ぎ


技術雑誌でも技術のシーズばかりを書くわけではない。92年に日経メディカルの編集に移ったが、当時は高脂血症治療薬として米国メルク社と競い、三共(当時)も自社開発した効果の高いスタチン系の薬が発売されていた。よく知られた「メバロチン(プラバスタチン)」である。


しかし医師は安易に患者に投与していないか。何人かの記者に医師を丹念に回って取材してもらい、「高脂血症治療に死角はないか」という記事にまとめた。食事療法をおろそかにして安易に薬物に頼る傾向があることがはっきりした。それを解説記事にした。メバロチンは効果が高く、発売されると年間1000億円を超える売り上げとなった。三共は本社屋を建て替えたが、メバロチン御殿といわれたほどだった。


いろいろな専門技術雑誌の編集部を移りながら、新聞とは違った専門技術記事についての思い出をつづった。読者にとってよい技術とは何か、これから大きくなる技術とは何か。研究開発や技術の現場を歩きながら考えてきたことだ。こうした専門ジャーナリズムが、米国のように日本でも育ってほしいと思う。


さわい・ひとし


1943年生まれ 68年日本経済新聞入社 71年日経BP社出向「日経エレクトロニクス」編集 「日経バイオテク」編集長 「日経パソコン」編集長 「日経メディカル」編集長・発行人 常務取締役を務めた

現在 国際医療福祉大学大学院客員教授(医療ジャーナリズム)膵臓癌患者会(パンキャン・ジャパン)理事

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