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ベトナム断想Ⅲ 「月の裏側」を見た―亡命した解放戦線幹部とパリで会う―(友田 錫)2014年4月

ベトナム戦争の取材や報道に取り組んだ西側のジャーナリストは、例外なく、大きな欲求不満にさいなまれていた。


ベトナム戦争を月にたとえると、西側のジャーナリストが見ることのできたのは、その「表側」でしかなかった。つまり、アメリカや南ベトナム政府の側から照らし出された戦争の顔である。


北ベトナムや南の解放戦線のほんとうの戦略がどこにあるのか。どんな悩みや困難を抱えているのか。さらには中国やソ連(当時)など「スポンサー」との関係の実態はどうなっているのか。こうしたことは、すべて共産党体制特有の厚い秘密のベールに包まれていて、外からはうかがい知ることができなかった。いうなれば、地球から決して見ることのできない「月の裏側」だった。


1980年8月に、突然、この「月の裏側」をのぞき見る機会がやってきた。ベトナム戦争が終わって南北が統一されてから、4年が過ぎていた。


パリに飛ぶ


「解放戦線の幹部だった古い友だちがボートピープルになって国を脱け出し、パリに亡命してきた。お望みなら会わせてあげよう」

フランス在住の親しいベトナム人の友人、Aから、こんな手紙が舞いこんだ。その「元幹部」は解放戦線の創設メンバーのひとりで、チュン・ニュー・タンといい、解放戦線がのちにつくった南ベトナム臨時革命政府では、司法大臣をつとめていたという。タンは二年をかけてひそかに脱出の準備を進め、ついに1979年8月26日の未明、川船で、家族、親類、近しい友人らとメコン川から南シナ海に出た。海賊に襲われたりしながらインドネシアのガラン島にたどりつき、難民収容所を経て、むかし留学したことのあるパリに、旧友のAを頼ってやってきた。


解放戦線といえば南ベトナム解放の一方の立役者だ。その幹部だった人物が、なぜ死の危険をおかしてボートピープルになったのか。統一後のベトナムで、かつての解放戦線はどんな運命の下におかれているのだろう。


そもそも15年近く続いたベトナム戦争で、ハノイと解放戦線はどんな戦略を編み出し、それをどう展開していったのか。そこにはどのような曲折があったのか。ハノイの指導部内の派閥争い、路線闘争の実態はいかなるものだったのか。体制の束縛を脱して自由の身になったタンなら、赤裸々な真実を明かしてくれるかもしれない。


わたしは、取るものも取りあえずパリに飛んだ。あいにくタンは、戦争中、ジャングル生活でとりつかれた熱帯アメーバ性の持病が再発していて、病床にあった。わたしはそのベッド脇に詰めかけて、まる5日間、テープレコーダーを片手に、ほぼ30時間にわたってインタビューした。


インタビューの詳細は、中公文庫『裏切られたベトナム革命』に収録されているので、ここでは省く。だが、タンの話が照らし出したベトナム戦争という月の「裏側」の光景には、それまで月の「表側」からは知ることのできなかったいくつかの重要な事実が、くっきりと浮かび上がっていた。


ウォーターゲート事件が転換をもたらした


その一つ。ハノイが1975年、南ベトナム全土の制圧を目指す大攻勢に打って出たきっかけは、何と、海の向こう、アメリカで起きたウォーターゲート事件だったのだ。


1973年に締結されたパリ和平協定では、南ベトナムに選挙を準備するための「民族和解一致全国評議会」という、一種の暫定政府をつくることが決められた。その含意は、中立勢力とサイゴン勢力、それに解放戦線の三者による連合政府の樹立にあった。


タンによると、当時ハノイの指導部内では、こうした「政治解決」をよしとする勢力が、南の軍事的制圧を急ごうという「軍事解決」派を抑えていた。南北の統一は遠い先の目標にとどめて、しばらくは「南」の解放戦線を柱にすえた南ベトナムを存続させる、というのがハノイの路線だった。タンは、インタビューの中で、「解放戦線は南の自主性の存続を目ざしていた」と繰り返し述べていたが、その解放戦線にとって、ハノイの「政治解決」路線は、ねがってもないことだった。


ところが、アメリカの政界がウォーターゲート事件で大混乱に陥った。1974年、混乱はついに当時の大統領、ニクソンが任期中に辞任するという、アメリカ政治史上類をみない異常事態にまで発展した。


タンはいった。


「ウォーターゲート事件は、わが方の戦略の転換点となった・・・。ウォーターゲート事件によって、アメリカが、もはや二度とベトナムに戻ってこられないと確信するにいたったのだ。と同時に、ハノイの政治局の中で、完全勝利によってベトナム戦争を終わらせるという軍事的解決の考え方が大きく頭を持ち上げてきた・・・」


やがて中部高原での北ベトナム軍の攻勢がきっかけとなって、南ベトナム政府軍が自壊現象を起こす。これを「歴史的チャンス」と見た北ベトナム軍は、1975年4月、南の首都、サイゴン総攻撃を目ざす「ホーチミン作戦」の火ぶたを切った。そしてついに一ヶ月も経たないうちに、サイゴンが陥落した。パリ協定からわずか2年あまり。ベトナム戦争は幕を閉じた。


この大団円の予想外の早い到来をもたらしたのが、実は、ウォーターゲート事件というアメリカの内政の劇的な展開だったと聞いて、わたしは、かつて北・解放戦線によるテト(旧正月)攻勢が、アメリカのベトナム離脱へのきっかけになったことを思い出した。テト攻勢で国内に一気に燃え上がった反戦機運を受けて、アメリカは「名誉ある撤退」へと、ベトナム政策の舵を180度切り変えたのだった。このときの転換の立役者が、ウォーターゲート事件で矢面に立たされた同じニクソンだったのは、歴史の皮肉というしかない。


最後の晩餐


もう一つ。タンの話が描き出した情景に、脳裏に焼きついて離れないひとこまがある。それはサイゴン陥落から半年あまりあと、解放戦線の幹部が集まって開かれた「最後の晩餐」の描写だ。


サイゴンが陥落したのは1975年4月末だが、早くもその年の8月に北ベトナム労働党、すなわち共産党は中央委総会を開き、「南北の早期統一」と「南の社会主義化」を急ぐ方針を決めた。これを受けて、翌1976年の前半に南北の統一を実現することが正式に決まった。多くの解放戦線の幹部は、できるだけ長く「南」が存続することをのぞんでいた。だが、だれも公然とハノイの意向に異を唱えることはできなかったという。


タンが解放戦線の議長、グエン・フー・トに働きかけて、解放戦線の「お別れ」の晩餐会が開かれることになった。場所はサイゴン中心部の国会議事堂に面したレックス・ホテル。その2階のナイトクラブにあるレストランを借り切ることになった。集まったのは解放戦線、臨時革命政府、平和勢力連盟の主だった指導者たち約30人。舞台では、楽団がマーチ風の革命歌や山岳民族の解放歌を演奏していた。


「夕方の6時からはじまって2時間も続かなかった・・・。食事のメニューは、チャゾー(ベトナム風の春巻き)とベトナム式のスープ、それにコメの飯だけ。質素な献立だった。みな胸がいっぱいだった。これが、お互い、顔を合わせる最後の夜なのだ。だれも、何も考えず、何も目に入らなかった。ただ、ぼんやりと演奏を聴き、歌に耳を傾けていた。いや、そうすることで、口を開かずにすませようとしていた、というべきかもしれない。口を開いたとしても、言うべき何があっただろう。 統一がこんなに早くきまるなどとは、だれ一人考えていなかった・・・。食事が終わった。みなは押し黙ったまま、散っていった」


かつてサイゴンに駐在していたとき、あるいはその後ベトナム情勢の追跡取材の折りに、わたしは取材相手と会うために、このレックス・ホテルのレストランをよく利用した。タンの話を聞きながら、わたしは、なじみのあるこのレストランのたたずまいを思い浮かべていた。


中国は南北の統一を嫌った


タンは、中国がベトナムの統一をきらい、解放戦線を「南」の主人公として盛り立てようとしていた、と明かした。この中国の動きは、不信にみちた中国と北ベトナムとの関係、さらには噴火寸前まで悪化していた中ソ対立、といったベトナム戦争の背後に広がる国際関係の「闇」の部分から発している。


「中国はパリで開かれていた和平会談をにらんで、南の臨時革命政府に主体性を持たせようと懸命に努力し、南の住民の自決権を尊重するよう主張した。そして南に臨時革命政府を中心とする連合政府を樹立させるために全力をつくした」


このタンのことばは、1979年の中越戦争のあと、ベトナム外務省が発表した「中国白書―中国を告発する」とも合致する。中国は、ハノイの強大化を防ぐためにベトナムの分断の継続をのぞんでいた。「南」の柱として自主性をそなえた解放戦線を残しておくということは、分断を継続させておこう、という中国の大戦略にそうものだった。


事実、ベトナム戦争の後半ぐらいから、西側の観測者の間でも、中国が、解放戦線に的を絞って、影響力の浸透をはかっているという見方が広がりはじめていた。タンも「中国は1969年に南に臨時革命政府が樹立されてから、ハノイの要人たちよりはるかに多くの解放戦線や臨時革命政府、平和勢力連盟の幹部を北京に招くようになった」と語っている。


さらにタンによると、ニクソン訪中で表面化した米中接近が、それまで中ソ等距離を心がけてきたハノイを、決定的に親ソに向かわせることになった、という。


「米中接近まで、ハノイの指導部内では、(かつて書記長だった)チュオン・チン率いる親中派、レ・ズアン第一書記以下の親ソ派という二つの勢力の力が拮抗していた。だが、中国がアメリカと手を結んだとあって、チュオン・チン一派は沈黙せざるを得なくなり、親ソ派が一挙に優位に立つことになった」


こうしたハノイのソ連への傾斜を牽制するためにも、中国はますます「南」、つまり解放戦線への影響力強化につとめたのだろう。ベトナム戦争が幕を閉じたあと、ハノイが急いで南北統一の実現に突き進んだのには、中国に対して、これ以上、解放戦線への影響力を強める時間を与えまい、という計算があったとしても不思議ではない。


これに関連して余談を一つ。


このインタビューから一ヵ月後の1980年9月、たまたま取材で西安を訪れていたわたしは、彼の地でタンとばったり再会した。中国革命の「聖地」、延安に向かうため西安空港に着いたとき、なんと待合室にタンがいたのだ。聞くと、同じく延安に行くところだという。


タンの話では、中国政府に招かれて、北京をはじめ各地をまわった。北京では、ベトナム共産党の元政治局員で1979年に北京に亡命していたホアン・ヴァン・ホアンといっしょに、華国鋒主席(当時)、それに首相就任直前の趙紫陽と会見し、そのあと、中国のインドシナ担当者と「突っ込んだ意見の交換」をした、ということだった。ちなみにホアン・ヴァン・ホアンは、ハノイ指導部の中で数少ない親中派の生き残りと目されていた旧幹部だ。


いずれにしても、この一事は、ベトナムの統一が成ったあとでも、中国が「南」に関心を持ち続けていたことを物語っている。


ベトナム戦争と政治の非情さ


タンが明かした解放戦線消滅の顛末は、一見、戦争が終わったことによってハノイ、すなわち北ベトナム指導部が解放戦線を「用済み」とみなして放り出したかのような印象を与える。


しかし、タンの話が照らし出した「月の裏側」のもろもろの陰影や凹凸を観察していくと、この南北統一、解放戦線の消滅という一連の出来事には、もっと大きく、かつ複雑な背景があったことに気づく。


まず南の「地域ナショナリズム」。もともとベトナムでは、歴史の経緯も手伝って、トンキン(北部)、アンナン(中部)、コーチシナ(南部)という三つの地域の「地域ナショナリズム」が、外から想像する以上に強い。「解放」後に南の自主性を保っていたい、という解放戦線のねがいも、これと無縁ではないだろう。ハノイの指導者たちにしてみれば、時間をおけば、解放戦線を柱にした「南」のナショナリズムが肥大化する恐れを無視できなかった。


もうひとつ、ハノイにとって、よりスケールの大きな心配があった。北方に広がる中国という巨大なパワーが、べトナムの南北分断の継続をねらって、この南の「地域ナショナリズム」を利用しつつあったという事実である。


こう見てくると、ハノイの指導部が南北の統一を急ぎ、解放戦線や臨時革命政府といった南の組織を早々と解体したのは、南の地域ナショナリズムの燃え上がる芽をつみ、かつ中国の「策略」に先手を打つ、という狙いがあったからだと考えて、ほぼ間違いない。


わたしたちが外から見たベトナム戦争は、その見るものの立ち位置によって、あるいは民族解放の戦いであり、あるいは北による南の侵略であり、あるいは共産主義と民主主義の争いとされた。しかし、戦争が幕を閉じて時間が経つにつれて、この戦争が、決して大義の相克だけではなかったことがわかってきた。歴史に根を張った地域と地域の特性のぶつかり合い、そして、アメリカだけでなく中国や旧ソ連といった外の大きな力のせめぎ合い。それらがからみ合って巨大な渦をなしたのが、ベトナム戦争だった。


クラウゼヴィッツは「戦争は政治の延長なり」といったが、ベトナム戦争を動かしていたものも、まさに非情な政治だった。「政治」の歯車は、個々の人間の思いや夢を圧しつぶして回転していった。タンの話が垣間見せたベトナム戦争という「月」の裏側には、この政治の非情さが、はっきり現われていた。(敬称略)


(元産経新聞記者、2014年4月22日記)

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