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いま、加藤紘一氏の言論が求められている(小菅 洋人)2014年3月

かつて首相の座に最も近い男と言われた自民党元幹事長・加藤紘一さんは、政治記者人生の中で最も忘れえぬ人である。


加藤氏は大平正芳首相の官房副長官として若い時代から頭角を現し「宏池会のプリンス」と言われた。私が本格的に同氏の取材を始めたのは、93年の自民党政権崩壊前の宮沢喜一内閣時代だ。


そして同氏が最も生き生きしていたのは、橋本龍太郎首相が率いる自社さ連立政権時代。95年から96年にかけて住宅金融専門会社への公的資金投入問題、さらに加藤氏本人への資金提供疑惑が取り沙汰された。加藤氏は野党の集中砲火を浴びながら、幹事長として政局を仕切った。


野党側の一部には自民党内の旧経世会と組もうとする、いわゆる「保・保連合」の動きがあり、攻撃のターゲットは橋本首相よりも、むしろリベラル派と目される加藤氏に向けられた。


「戦国時代や幕末じゃあるまいし、権力闘争といっても殺されるわけではないしな」。相当に参っていた加藤氏がビールを飲みながら、しみじみ漏らしたのを覚えている。ちょうど小室哲哉の曲が席巻していた時期。よくカラオケにも行ったが、世代交代や「保・保連合」を意識して、「こっちは小室の歌だけど、中曽根康弘さんや梶山静六さんは軍歌だろうな」などとベテラン議員を意識しながら、慣れないヒット曲を歌っていた。


2000年秋、「加藤の乱」が起きた。野党提出の内閣不信任案に加藤氏グループが同調するか否かの大政局だった。私は自民党キャップで、父が肺がんで故郷の山梨県の病院に入院中だったころと重なる。同僚の助けを借りながら、取材の合間を縫うように衰弱した父を見舞った。


しかし父の死は突然訪れた。母によると、父は日課だった病院地下にある売店で毎日新聞を買い、病室に戻ったところで倒れて、新聞を握ったまま息を引き取った。生前、「息子は見舞いにきても、携帯ばかりしているな」とつぶやいていたという。


結局、加藤氏は敗軍の将になった。その後、同氏からは宮沢喜一氏がなぜ自分を支援しなかったか、恨み節をずいぶん聞かされた。翌年の4月、森氏は退陣し加藤氏ではなく、まさかの小泉純一郎氏の時代に入った。


一昨年12月の衆院選当日は本社で政権交代の紙面を作った。自民党圧勝の情勢でありながら、山形3区の加藤氏は敗れた。同氏はそれまで常に得票率は全国上位で、「握手の時、相手の握りの強弱で支援の本気度がわかるんだ」「私は100票持っているなんて言ってくる人がいるが、それはうそ。3、4票だけど応援する、という人を信用する」などとの選挙の話をよく聞いた。


今でも時々お会いするが、加藤氏は山形の地酒を持参して振る舞ってくれる。議員時代、加藤氏は演説も立て板に水で、マスコミに求められると、つぼを押さえた見出しの立ちやすいコメントを発した。それゆえ本人も「評論家の加藤です」などと自虐的な自己紹介をしたことがある。


自民党内のリベラル勢力が衰退し、安倍晋三首相の1強時代。老け込むには早い。この政治状況下、加藤氏の言論が求められていると思う。


(こすげ・ひろと 毎日新聞社編集編成局次長)

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