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金大中氏と私 反独裁の闘士が大統領となるまでを共に(長沼 節夫)2013年8月

1973(昭和48)年8月8日の白昼、東京都心のホテルから韓国野党の大統領候補が突然姿を消した。その後長く日本中を震撼させた「金大中拉致事件」だ。あれから満40年の月日が流れた。


金大中氏との初対面は、事件から2年以上前の71年3月、韓国大統領選のさなかだった。当時私は大学院生・大学新聞記者・夕刊フジ(大阪)嘱託記者・予備校教師の4足ワラジの生活だった。韓国での友人兼通訳の徐洪錫氏が「朴正凞軍事独裁と闘う民主主義者がきょう演説する。一緒に見物しよう」と言ってソウル市内の小さな国民学校に案内してくれた。


一見してそれと分かる黒ジャンパーのKCIA(韓国中央情報部)が目を光らせていたが、校庭に超満員の人が集まると弾圧できない。当局は野党候補の演説会場には、こんなに小さな場所しか許可しなかった。おまけに、日曜日というのに、政府は公務員に緊急出勤を命じて野党演説を聞かせないという嫌がらせまでしたという。


◆強烈な闘争心と気さくな素顔


党幹部が次々前座話を語る途中、金候補に会って、「日本から来ました。演説を録音していいですか」と聞くと、「もちろん。ほほう、これが最近登場したカセット式レコーダーというのか。私はまだ持ってないが便利な機械だ。よし、私がこれを預かって登壇し、演説が終わってからお返ししよう。この2つのボタンを同時に押せば録音できるんだね」と言った。


「インタビューもしたい」と申し入れると、「では明朝早く自宅に来なさい。遊説に出かける前に話そう。私が出発後は妻にインタビューしなさい」と言ってくれた。46歳。若々しく精悍な闘志の塊という印象だった。


金候補の演説は原稿なしで約40分。強烈な独裁批判と国民への民主主義回復の約束だった。


「この国は完全無欠な独裁国家だ。普通の国では新聞は新聞記者が作る。しかしわが国ではKCIAが新聞を作る。ウソだと思うなら、ここ4年間の新聞をひっくり返してみなさい。朴大統領やKCIA批判の記事が1行でもあるか。政府批判のないものが果たして新聞と言えようか。KCIAは学園に浸透して教授と学生の間に不信感を植え付け、学者らを恐怖に追い込む。与党系の政治家だって安心できない。大統領の陰口をきいたら、たちまち密告され、情報部本部地下に連行されて殴る蹴るの拷問を受ける。彼らにできないことは男を女に、女を男に変えることだけだ。我々が政権を取ったら直ちにこれを廃止する」


校庭では聴衆の多くが涙を流しながら金候補に拍手を送っていた。しかし予想通り、翌日のどの新聞にもKCIA絡みは1行も載らず、わずかに「当選したら徐々に南北交流を始める」という演説部分を引用して、「これは反共法違反の疑いがある」というコメントを伝えた程度だった。


選挙結果は金候補の惜敗だった。これでは真実が伝わらないとの思いから帰国後、「エコノミスト」誌にペンネームで金候補の演説を詳しく書いた。この文章は金大中拉致事件発生後、いろんなメディアに「事件の背景」として引用された。金大中拉致・殺害未遂は朴政権とKCIAが金候補の演説への恨みを込めて実行した報復ともいえる。


演説の翌朝、金候補宅を訪ねると、「時間がもったいないから一緒に朝食をとりながら話そう」と言う。早速箸を上げようとすると、金氏夫妻は黙祷して食前の祈りをささげていた。一家は敬虔なキリスト教徒だった。居間の本棚には、『三国志』とか『徳川家康』など歴史小説が全集でびっしりと並んでいた。


◆かつての面影なくした金氏と再会


私は翌72年夏上京し、時事通信社に就職したが間もなく、金大中氏がひょっこりと訪ねてきた。あの精悍な姿はすっかり影を潜め、つえにすがるようにして歩くたびに大きく体が揺れた。本人が名乗らなければ金氏と分からないほどだった。


「先生、どうしました」と聞いたが、私が知らないはずだった。金氏によれば、こういうことだった。


「大統領選の翌月にあった国会議員選挙で地方遊説中、自分の車に大型トラックが正面から突っ込んでくる事故に遭い、死者3人、重傷3人を出したが、当局が私の殺害を狙った事故だったので、犯人探しも新聞報道もなかった。自分は九死に一生を得たが、この通りの体になった。韓国で治療しても、いつ殺されるか分からないので、東京へ来た」


韓国では朴大統領が金氏の出国を待っていたかのように「維新宣言」を行い、反対派弾圧を強めた。金氏は外国人記者クラブで維新反対を表明するとともに、帰国を当面、断念した。治療の合間を縫って日米の政治家に次々と会って韓国民主化への支援を求めた。


73年に入ると金氏は、「韓国大使館が尾行を強めている」と言った。よく電話で呼び出され面会したが、そのたびにホテルが変わっていた。私は「逃げ回るだけでは危険だ。この際、マスコミに登場しましょう」と言い、夕刊フジの千野境子記者に写真コラムを、朝日新聞の本多勝一記者に雑誌インタビューを頼んだ。


ある日、金氏から「移動のたびにタクシーでは面倒なので、クルマを買ってやろうと言う人がいる。どう思うか」と聞かれた。私は「反対です。確かに移動には便利だが、それ以上に尾行する側にとって便利になる。同じクルマを追跡すれば済むので」と答えた。金氏も賛同した。


やがて金氏は「おかしい。いくらホテルを変えても当局に情報が漏れる。隣の部屋に行って話そう」と言い、私の耳元に、「護衛の青年にスパイがいるのか」とささやいた。金氏も大使館内にシンパを持ち、情報を得ているらしかった。私も小声で、「韓青同(韓国青年同盟)の諸君は信頼できます」と答えた。韓青同は反政府系の青年組織で金氏を中心人物と仰ぎ、支援していた。私は金氏が心配し過ぎと考えていた。拉致事件発生はその3日後だった。当時の密告者が誰だったかを私は最近、ソウルで告げられて驚いた。


金氏がもっと護衛青年を信頼していたら拉致事件は阻止できたかもしれない。あの日、宿舎のホテルから事件発生のホテルに行くとき、金氏はいつもの護衛2人に、「きょうは1人でいい」と言い、同行の1人にも、「大事な人と会うので君はここ(1階)で待ってなさい」とだけ言った。目的地の部屋もこれから会う人物名も告げなかったという。青年が我慢強く1階で長時間待つ間に事件は起きたのだった。心配は高まったが5日後、「金氏ソウルの自宅に戻る」というニュースでほっとした。


8月23日付読売新聞が「事件に韓国中央情報部(KCIA)が関与」というスクープを書き、さらに金東雲の指紋検出を報じた。しかし11月、日韓両政府は事件の政治決着を図る一方、朴政権は政敵・金氏の逮捕や自宅軟禁を繰り返した。


私は事件の翌年から2年近くアフリカに勤務し、75年暮れ、帰国して社会部の警視庁、次いで国会担当となった。国会では依然、事件に関し質疑が続いていた。事件発生直後、警視庁より先に事件現場に駆けつけたという共同通信の村岡博人記者も一緒で、彼からいろいろ学んだ。


◆軍事裁判の起訴状に私の名前?


77年7月、米国下院で金炯旭元KCIA部長が事件はKCIAの犯行とする衝撃的証言を行い、米国に事件解明を期待する動きが高まった。79年6月、カーター大統領の日韓両国訪問にも局面打開の期待がかかった。訪韓前日、日本の国会は衆院議長公邸でカーター氏歓迎パーティーを開いた。談笑が進むうち大統領が「ハイ・ジャパニーズ・プレス」と言って近づいてきた。私は「ウェルカム・ミスター・プレジデント。明日は朴大統領のほか金大中氏にもお会いになりませんか」と聞いた。大統領は「残念だが、まだ決まってない」と言った。


パーティー後、ホワイトハウスの同行記者団から会話の内容を聞かれた。また彼らは「大統領と話すときはまず筆頭記者のヘレン・トーマス(UPI)に断るルールだ。君のようなルール破りは初めてだ」と苦言を洩らした。私は「ここはホワイトハウスではない。日本の国会だ」と言って納得してもらった。やはり米国から同行して来た文明子記者は、「ビューティフル。勇気ある質問だった」とほめてくれた。


結局、カーター氏は朴氏との首脳会談後、野党代表の金泳三氏とだけ会って帰国した。朴氏との摩擦をわざと避けたのだろう。朴氏はその4カ月後、腹心の部下に射殺された。しかし80年、全斗煥将軍による「5・17クーデター」が起こった。光州事件とは別に「金大中内乱陰謀事件」として民主化指導者が次々逮捕された。


軍事裁判が始まり、起訴状に私の名前が出ていることをソウル電で知って驚いた。3月に私が金氏に韓民統情報を伝えたことが、金氏が反国家団体韓民統の活動をしたのと同じだという滅茶苦茶な主張だが、私は「一切関知せず」で通した。9月、金氏に死刑の判決が言い渡され、81年1月に最高裁で確定。直後に閣議決定で「無期」に減刑され、82年暮れ、金氏は家族と共に米国へ亡命した。


85年に帰国する2日前、ワシントンで支持者らが盛大な歓送会を開いた。翌日、金氏は米上院ビルにエドワード・ケネディ議員を訪ねてあいさつをし、訪米中だった私も同行した。部屋には私しかいなかったので、議員室でツーショットを撮った。この写真は2氏が2009年8月、相次いで死去した際、日韓のメディアに提供した。


韓国の大統領選取材はマスコミ各社が1台の大型バスを仕立て、相乗りして候補者を追うので抜け駆けができない。そこで92年選挙を取材した際には金氏が私のために一計を案じ、仁川遊説からソウルに戻る車中で1時間単独インタビューができた。後続の報道陣には気付かれなかった。


80年代以降、私が本名で書くようになると、それまでもぞんざいだった大使館員の私への扱いはさらに手荒となり、「金大中と会うな」と迫ったり、旅券を投げつけたりした。


それほど敵対的だった韓国大使館員が98年初め、一転して神妙に時事通信に私を訪ねてきた。そして「金大中大統領閣下からの就任式招請状です」と告げた。


◆政治決着に潜む謎


金大中大統領時代(98〜03年)には過去の独裁(韓国では権威主義と呼ぶ)政権下での人権侵害を清算する作業が始まり、盧武鉉政権(03~08年)がさらに真実委員会を立ち上げた。私は昨年暮れ、金氏の盟友だった韓勝憲弁護士の紹介で、カトリック大学で安炳旭教授に会った。国家が過去の事件を検証する真実委の委員長を務め07年、詳細な金大中事件調査報告書をまとめた人物だ。それによれば、韓国で健在の金東雲を含む元KCIA要員や拉致船乗組員、情報部保存文書を調べた結果、初めの殺害計画が途中で拉致に変更されたこと、朴大統領が直接指示した可能性が高いことなどが判明した。


報告書については事件発生時の毎日新聞ソウル特派員で、以来40年間事件追究を続けている古野喜政氏の『金大中事件最後のスクープ』(10年、東方出版)に詳しい。同書には安氏が、報告書には入れなかったが当時、KCIAや日本の公安に協力したのは日本の言論人だったと語ったことが記されている。安氏は事件直前に金氏の動静をKCIAに伝え、それがソウルに送られていたという文書のコピーを私に示し、「情報提供者は氏名は隠しています。日本の全国紙の記者だった」と語った。


政治決着の背景に何があったのか。日本政府はなぜ文書を公開しないのかなど、事件はまだ多くの謎をはらむ。一方、日本人が1人の外国人の身をあれほど心配し、人権意識を燃え上がらせたという歴史は誇らしい。その中心に金氏がいる。


ながぬま・せつお

1942年長野県飯田市生まれ 72年時事通信入社 経済部 ナイジェリア・ラゴス支局 社会部 整理部など 2008年から個人D会員 現在 日本地域紙図書館および南信州新聞記者

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